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 日 記




2022/10月/2日

10兆年でさえも

この閉塞感が漂う日常で、せめて読書でもしよう、 と図書館で宇宙の関する書物を何冊も借りたりしているうち、 不勉強の期間が長かったせいか、知らぬ間に自らの知識が大きく時代遅れのものになっていることに気付く。

むかし子供時代に得た銀河系の情報は、 アンドロメダ銀河と同様の形状ーーつまり普通の「渦巻き銀河」だった、 という記憶があるが、最近目を通した資料では、 現在では「棒渦巻き」であろうというのがほぼ確実視されているらしい。 そして宇宙に存在する銀河の数は2000億だと以前は頭に刻まれていたが、 最近の研究ではその10倍の2兆個にも及ぶそうだ。 ひとくちに2兆ーーと言ってみたところで、実感として皆目見当もつかないが。

したがって前回の挿絵に記した文面も改めなければならないが、 つくづく、銀河系ひいては太陽系・地球の大きさは、 一体どれほど矮小のものになることだろう、と考えると気が遠くなる。 しかもその宇宙、誕生の瞬間の大きさは10のマイナス34乗cmほどだったらしい。 今ある全ての要素が、その直径の中に凝縮されて詰まっていて、 一瞬にして超々々々々々スーパーウルトラ大膨張を起こして広がっていったのだと思うと、 何が何だかもうわからない。

さらに宇宙は、いつまで存続することだろう。そんなことはわからなくて当然だが、 いろいろ本を読んでいると、10の100乗年後にはどうなっているのか? という記述もしばしば目にする。 日本で名称がつけられている最大の数の単位「無量大数」が、 一般的に10の68乗とか言われているので、100乗などとなると、 もはやその数を単位で表現することすらできない・・・ある本にて、 こうなるともう「10兆年でさえ一瞬と感じられてしまう」と書かれていたが、 まさにその通り。 10兆など「ほんの」10の13乗にしか過ぎないのだし。 そしていつかは宇宙の中身が一切合切「無」となり、 「時間」という概念が意味をなさなくなるらしい。 そうなると「何年が経てば」という表現自体が無意味となるよね。


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かくの如く想像力を遥かに超えた荒唐無稽な理論にとらわれてしまうと、 逆に思いきって単純な思考にシフトしないと 脳のほうがビッグバンを起こして崩壊しそうな気がしている。 たとえばーーーひょっとすると宇宙の生成とは複雑なものでもなく、 その外側にごく無邪気な存在が居て、おもちゃでも扱うがごとく弄んでいるだけかもしれぬ。 その無垢な存在の手により、宇宙や銀河は遊びの中で面白がって造られている、 と嘘でも考えてみると、何とも楽しいではないか。 ひとつ完成すると、また次の宇宙を膨らませて最初から造り始まる。 そんな工作を繰り返したりしているのかも。

 そのような空想に思いを巡らせながら暮らした春・夏・初秋を経て、 いつしか今年も4分の3が終了。だが10兆年が一瞬だとすると、 そんな日々など超短命の素粒子の寿命にすら到底及ばない。限りなくゼロに近いわれわれの人生。


 



2022/3月/22日

0.7秒の人生・分子サイズの地球

ただでさえ、いまだ未曾有の感染症と闘わねばならない最中、 狂気の沙汰による惨劇が21世紀のこの地球上で現在進行形として上演されている。 この次元で生きる人間たちは先月末以来、終わりの見えない悪夢を見ているようだ。 結局 人類は過去を鑑みて何も学んでいない ということが露呈、 それどころか一気に何世紀も後戻りし、退化してしまったらしい。

概ね46億歳と言われる地球の年齢を1年に縮めたとき、 人類の発祥はいつの時点であるかーーという話を過日 記したが、 さらにヒトひとりの人生は、どれほどの時間なのか。

計算間違いが無いとして、かなり長生きしたとしても せいぜい0.7秒程度にしかならない、という解を得た。 加えて地球の大きさ(直径)にまで銀河系を縮小してみたと仮定すると、太陽を回るこの星の公転軌道ですら、 ざっと直径3mm程度の円にしかならないのである。 言うまでもなく地球そのものは、いかほどなのだろうか。 もう計算するのもうんざりだが、たぶん分子レベルの大きさでしかないんだろうなぁ〜。

つまり宇宙的観点から眺めると、われわれは分子サイズのこの星の上でほんの一瞬だけ、 たかだかたった0.7秒のごくごく短い人生を与えられているに過ぎない。 わずか瞬き一回の時間にさえ及ばぬ儚い生命。それを更に縮める常軌を逸した蛮行を以て、 ナノメートル級の極小世界でのナワバリを広げ民を支配しようとする・・・ かようなバカバカしい目的がたとえ成されたとしても、その後ごく少数の側近や賛同者たちを除き、 いったい世の中の誰が尊敬・友好の意を持って接してくれるというのかね。


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もしかすると、正気を失い「人」であることを放棄した者たちも、 かつてはまともな人間として生きていた時期もあったかもしれないが、 もはやその範疇から完全に外れている。 だが仮にいつか再び「人」に戻る日が訪れたとして、 はたして病んで狂っていた自分たちが残した戦慄の爪痕を、のちにまともに正視することができるだろうか。

そもそも放っておいても、いずれ地球における全ての営みは終わる。 それがず〜っと未来であったとしても、他の天体への移住などで何とかヒトが種として存続し得たとしても、 この地上で造りあげた歴史は確実に100%終焉を迎える。 それとともに過去から築いてきた文化文明・世界遺産等の建築物や創造物、大自然までも何ひとつ例外なく、 そっくり完全に消失する。 そう考えてみると、なんと無意味・不毛の極致であることか。

大宇宙を管理統括している神の如き存在がいるとすれば、 現在のこのケシ粒にも満たない星の惨状を如何に空しく見ていることか。 銀河系の片隅にある吹けば飛ぶような太陽系の、塵より遥かに微小な惑星上にて展開されている、 瞬時に消えゆく生命体(の一部)による愚かな所業を。


 



2021/11月/28日

晩秋の月食

今月は月食が起こった。部分食とはいえ、ほぼ皆既。 特殊な天文現象を目にすることが出来るかどうか、 それはほとんど天候次第であるが、 今回わたしの住まう地域では幸運にも晴れ渡り、食の最初(月の出)から最後まで、 完璧に美しく眺めることができた。

昔は日食やら月食やら、毎回 熱心に観測するのは所謂「天文マニア」に限られていたように思うが、 昨今ではもうすっかりイベント化され、時として世間が大騒ぎだったりする。

今回、暗赤色に染まる満月を見ながら しみじみと考えた。 月が誕生して44億年余ほど経っているそうだが、この気が遠くなるような長い年月のあいだ、 いったい何度 日食や月食が繰り返されたことだろうか?  月と太陽は地球をも巻き込み、途轍もなく多くの回数、 このような自然の天体ショーを上演していた ということになる。

この星に、まだ黎明期の生命すら出現していなかった太古の大昔から、 ようやく単細胞の微生物が生まれて魚類・両生類等々を経て、 やがては長期間に亘って繁栄する恐竜の時代を迎える。 その間ももちろん、彼らの頭上の天空では 時折くだんの壮大なショーが繰り広げられ、 その都度そのときの生き物たちは、突然に生じる空の異変に面食らっていたかもしれない。

当然それらが起こる仕組みがまだわかっていなかった時代の人類も、また同様。 ヒトはこの地上に現れた生命としては、まだまだ新参者である。 地球創世以降〜現在までを元日からの1年間に圧縮したとすると、 ヒトが誕生したのは大晦日の23時37分ごろであるらしい。 しかし残りたった23分間のうちに天文学を劇的に進歩させ、 日食や月食の仕組みを解き明かして予測し 今やそうした現象が起こるときは、かくの如く一大イベント並み。 そしてその時間が迫ってくると、大勢の人びとが天を仰ぐ。

しかし月や太陽は定められたその時刻が来れば、毎度淡々と同じ天体ショーを披露するだけである。 これまでの歴史の中で、この地球にひとりとして見てくれる観客が居ない時代も、 そんなことはお構いなしに飽きもせず文句も言わず、ただ何度も何度も何度でも繰り返してきた。 現代になって多くの人が熱狂し、その注目を浴びようが浴びまいが、そんなことには一切影響されず、 上演日が訪れると決められたスケジュール通り、1秒たりとも狂いなく忠実に確実に。 おそらく人類は この星での生活を選択している限り遥か遠い未来、 いつの日か滅びてしまうと予想されるが、そんな日が到来して再び観客が皆無になったあとでも、ず〜っとそれは続くのだ。


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もっとも、やがて月は徐々に遠離っていくそうだし、 そもそも太陽はいずれ終焉間近に地球・月を呑み込むほどにまで膨張してしまうらしいので (残り寿命は約50億年、と聞く)、その状況が近づけば超々々ロングランのこのショーも、 いつかは「打ち切り」のときを迎えることだろう。そう考えると何とも切ないが、 それが宇宙のさだめなのであれば仕方ない。

自身の生命が終わるまでに、こうした神秘の光景を この目であと何回見られることだろう。 東の夜空にぽっかり浮かんだ赤暗い満月を見上げながら、 星の一生とヒトひとりの一生・・・その長さのあまりの差を思い驚愕した、今月19日の宵。






2021/6月/28日

胡蝶の夢

ーーーということで何とか転居を済ませ阪神間の住人になってから、4ヶ月近くにもなろうとしている。 最初のころは違和感ありまくりで、どうしていつまでも この家に滞在しているのだろう、 いつになれば京都の自宅に帰るのだろうか、などという思いに しばしばとらわれていたものである。 まるで夢を見ているかのごとく。

先日、実際まだ京都の家に住まっている夢を見た。 わたしは寝床の中にいて、かつての家の天井やら壁やらが視界に入り、 な〜んだやっぱりここは元の家じゃないですか、引っ越しなんてしていなかったんだ・・・ なんて考えていたら急に目が覚め、あっ夢だった・・・でもそれもまた夢だった。 ごくたまにだが、こうした「入れ子」になっている夢を見る。 稀にもう一段階ほど入れ子が重なっていることもあるが(体調を崩したときになど、けっこう多い)、 その場合は前の夢からストーリーが引き継がれ、少しずつ時間経過とともに状況が発展していったりする。 ひとつのテーマとして繋がっているわけで、これまでの人生で数回、そんなことがあった (好ましいテーマの夢の場合などは、本当に現実に戻るべく目覚めた瞬間、何とも残念な気持ちになる)。

ところで「夢オチ」という結末が、嫌い。 かなり昔、一年近くも熱心に親しんだ冒険物語が、最後はあっけなく夢オチで終わってしまい 心底がっかりしたことがある。 一年も引っ張って来て、この終わりかたはないだろう・・・と失望し、裏切られた気がして呆然としてしまった。


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時と場合によっては これはやってはならない「禁じ手」だと思っている。 上手い結びの方法が考えつかず、ならば結局「これまでのストーリーは、主人公の夢でした〜」 ってことで逃げて終了してしまう。 作り手側としては楽な終わらせかたなのだろうが、長期間に亘って その話に熱中してきた者たちの心情を本当に考えているのだろうか?  これまでの展開はいったい何だったの無責任だわ。 言葉は悪いが卑怯な感じさえする。 古今東西の物語で、わたしが個人的に何とか夢オチが許されるのは唯一、「不思議の国のアリス」くらい。

さて目下のこの生活、わたしたち全てが悪夢を見始めてから ざっと1年半。 毎朝 目が覚めるたびに「昨日まで悪い夢を見ていただけ。今日から普通の日常に戻れるかも」 などと切ない期待をしてしまう。 しかし無情にもその希望は打ち砕かれ、また今日も昨日と同様、当分はこの煩わしい夢を見続けなければならないのだろうか。 長過ぎる、あまりに長いこの不快な現実、まさに「夢オチ」であってほしい と願わずにはいられない。

それとももしかしたら わたしたちのほうこそ、異次元の誰か、が見ている夢の中の住人ーーなのかもしれない。


 



2021/2月/28日

我喜歓南台湾

引っ越しすることが決まり、その作業にかまけていたら、 いつの間にか逃げる2月も本日で最後となってしまった。 あと10日もすれば四半世紀以上に亘る京都市民生活を終え、阪神間に居を移さねばならない。 そうなるとまた当分は荷解きに時間を取られ、この欄の加筆もままならないだろう。 だから今のうちに更新しよう、とは思っていたのだが、頭が働かずテーマが浮かばず、 添えるイラストの案も、思考が停止したままで久しい、このご時世、そもそもスイッチが、なかなか入らない。

一般の庶民が、自国から出られなくなって1年ほど経過した。 海外旅行がいつになれば再開可能となるのか、見通しはまだまだ立たぬまま。 わたしの心の声が叫ぶ・・・あ〜南台湾、行きたい!と。

最大都市・台北を擁する台湾北部に比べ、 どことなくゆったりと時が流れるような台湾南部は、お気に入りのエリアである。 関空からのLCCを使い適当に安い宿を探して行くと、東京へ出掛けるより低費用で抑えることができる。 最後に訪れたのは2018年暮れだったが、そのときは、これから先も何の問題もなくリピートできる、と信じて疑わなかった。

ところがしかし何とまぁ、一生のうちには いつ何が起こるかわかったものではない。 全ての地球人の身に突然、想定すらしていなかった禍の不運が突然斜め上から降ってきて、1年余り。 何も出来ぬままパスポートの有効期限が減っていくのは、どうにも空しく感じてしまう。 せめて以前に訪台した際の思い出に浸ろうと、そのとき撮った写真を見直していたら、何とも奇異な画像が出てきた。 そこで今回は自筆イラストの代わりに、それを載せさせてもらうことにする。手抜きで申しわけないですが。

1枚目、台南の街中の自販機に貼られていた表示。 よく憶えていないが、たぶん何か日本製の雑貨でも売られていたのだろう。 中国語圏で日本語に訳されている記述には、しばしばこの手のものが見受けられ、くすくすと笑いを誘う (最後の句点の位置もヘンで、「宙に浮いてるよっ」とツッコミを入れたくなる)。 同じ漢字の国でも、随分と差異があるものだ。 しかし考えてみると、日本でも英語の文法が妙な文章が、あちこちに掲げられているに違いない。 わたしたちが中国語圏で見かける「この日本語はおかしい」と感じる同様の思いで、 欧米の人たちは そんな英語表記を見て笑っていることだろう。


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2枚目は、高雄市バスの車内、窓際に掲げられた「ぎょっとするような」表示である。 その字面のあまりのインパクトに気を奪われ、肝心のモノが脇に追いやられて画面から切れてしまったが、 左側に少し写っている赤いケースの中に、その「モノ」は納められている・・・ 「車窓撃破装置」(「窓」の字が日本とは異なっているが)なる器具が、そこに入っているわけである。 万一の非常時には、それを使って窓を叩き割って脱出せよ、という意味であろうが、 「撃破」などという穏やかならぬ表記、そして単にバールの如き工具なのだが、 それを「装置」と言ってしまう大層な心意気(?)は、まさに中国語の神髄を見たような気がして、 恐れいりました、と平伏するほど。 もちろんこれも中国語圏の人びとにとっては何も不思議じゃない普通の表現なのだろうが、 日本で生まれ育った日本人にとっては、実に肝をつぶすような言い回しである。


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このような「たまげた」場面にたびたび出くわし、その都度 笑いつつ写真を撮った。 活気ある往来、レトロな裏通り、夜市の楽しみ、親切な人びと・・・思い出すたび、 あの環境にまた身を置いてみたい、と願う。 そんなワクワク感を味わいに再び訪れる日々が、戻ってくるだろうか。 どうか高雄へのLCCが廃線にならず、いつかは復活してくれるよう望むばかりである。

その高雄は趣ある港都だが、わたしが次に移り住む地域も港都・神戸の隣接地。 たぶん終の住処となるだろう。 これからは時として潮風を感じながら、残りの人生を生きていく。


 



2020/10月/18日

花は遅かった

この表題を見て「カオルちゃんーー」や「バカヤロー!」などという言葉を連想する人もいるかもしれない。 恥ずかしながら、そうとう昔の流行歌の曲名・・・いや別に懐メロの話をしたいわけではない。 実際この夏から秋にかけて、実家の庭の花が 軒並み遅かったのである。

まず異変を感じたのは、サルスベリだった。 いつもなら7月下旬に差し掛かると咲き出すはずなのに、8月に入ってもその気配がない。 まさか枯れてしまったのでは?と一時は懸念したが、お盆近くになって漸く開花し始めた (因みにサルスベリは「百日紅」と書くが、うちのは白い。 その昔、亡父が「赤いサルスベリの苗木が欲しい」と植木市に出掛けて買って来て植えたものだが、 生長して咲いてみたら白かった。 その場所には、やはり赤いほうが良かったそうだが、 もうすっかり根付いて今さら動かすのも気の毒なので そのまま植わっている、という経緯がある木である)。 同時に例年なら 夏の盛りともなれば次々と開いていた芙蓉も、同じく今シーズンは 遅れたような気がする。

そしてヒガンバナ。一昨年の秋の彼岸、わたしはこの花のことを 毎年、忠実に時季を守る「律義者」と称したが、 今年はどうしたというのだろう・・・彼岸の入りの日、実家に戻って庭を眺めたのだが、 一輪たりとも咲いていない。 その後、今月上旬に再び訪れたときに やっと満開となっていた。


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我が実家の庭に限った現象かどうかは知らないが、とにかくいつもの年と異なり、 ことごとく開花が概ね半月程度、遅れていたのである。 もしかしたら梅雨がなかなか明けなかったから、それにつられて 各花々も遅くなってしまったのかしら。 梅雨が終わって一定程度の日数が経たないと咲かない、という約束が、 花たちのあいだで交わされているのかもしれない。

ついでに言うと、ヒガンバナに関しては もうひとつ、解せないことがあった。 もう何十年も、うちにはノーマルな「真っ赤な」花しか無かったはずなのだが、 何故か今秋は突然、ピンク色のものが2〜3輪、姿を現したのだ。 確かにピンクの品種は存在するのだが、 実家の庭では ずーっとこれまでお目にかかったことは皆無だったのに、どういうわけなんでしょうね。

  不思議な今季の開花事情。真相は、本人(本花?)たちにしか、わからないだろうが。


 



2020/8月/20日

動けない・・・

ほとんど何も為せずに ぼ〜っと過ごしているうち、 いつの間にやら お盆も過ぎて晩夏に差し掛かってしまった。 この間まで喧しかった蝉の声も、わが家の近くでは何日か前から ほとんどもう耳にすることはなく、 聞こえなくなればなったで、けっこう淋しいものである。

夏季が到来すれば この異常な状況は好転するか と少し期待したが、 残念ながら その兆しは殆ど見えない。 先日 テレビで耳にした某大物タレントの言葉に、納得してうなづく。 それは「周りが動いていないと、自分も動くことが出来ない」という意味のことだったが、言い得て妙だと思う。

周囲の世界が停滞しだしてから、かれこれ半年。 この情勢の中 どうにか動こうと足掻いても、空回りするだけ。とにかくやる気が出ない・・・ さしずめ「ルームランナーに乗って走っているみたい」というところだろうか。 躍起になって何とか頑張ってみても 視界の変化が感じられなければ刺激を感じられず、 気力が失せて 後ろ向きのベクトルに引き摺られ、容易には進めない。 つくづく「生きていくモチベーション」を維持する要素として、 周りの世の中の適度な変化は不可欠なのだ と痛感している。 加えて連日の 尋常ならぬ酷暑のせいもあるだろう。 特に今夏は外出時にマスクが必要。 布の端切れで数枚を手作りしたが、不織布よりも幾分マシではあっても やはり熱は籠ってしまい、 なかなか頭が回らず 生産的なことを考えられなくなっているーーー言い訳がましいが。


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本来ならば、まだ夏休みは僅かながら残っていて、 大抵の児童・生徒は 今ごろ宿題の追い込みにかかっているはず。 はるか昔、小学1年生のとき、8月末日に母が わたしの宿題帳をチェックし、 あまりの字の乱れ(走り書きしていたらしい)に激怒し、 その日 深夜まで泣きながら全部を書き直させられた苦い記憶を、今では懐かしく思い出す。 その後20年ほど経って 母にそのときのことを話したところすっかり忘れてしまっていたが、 やらせられた当人は生涯いつまでも、鮮明に憶えていることだろう。

かつて わたしも通った大阪府立の高校は、今回の夏休みは お盆を含む10日間だけだったとか。 いくら冷房完備の教室(わたしたちのころは そんな気が利いたモノは無く、 みんなで下敷きをパタパタあおいでいたが)ではあっても 朝夕の自宅から学校への行き帰りは、 まだまだ残暑が厳しい。 これまでの事情があるとは言え気の毒に、相当な難行苦行だろう。 「暑い時期」だからこそ、の長期休暇なのにねぇ・・・何もかもが異例尽くめの夏が、 そろそろ終わりを迎えようとしている。


 



2020/5月/17日

異次元へのトリップ

よく晴れた休日の夕刻。私鉄某駅のホーム、京都方面からの特急が到着する。 気候のよいこの時節、本来ならば京の街で存分に遊んだのち帰途につく観光客たちで、車内は満員のはず。 しかしこの日その特急の車内に あまり乗客は見られず、空席が目立っていた。

爛漫の春、そして新緑の初夏。それらを愛でに外出することもままならず。 いったい わたしたちはこの数ヶ月、どの異世界に迷い込んでしまったのだろう。



行きたいところへ、行きたいときに行けない。会いたいひとに、会いたいときに会えない。

富める国も、そうでない国も。裕福な人も、そうでない人も。

格差なく平等に。 地球上、ほぼすべてにわたり目下ほとんどの地域・人々が、この不条理な日常の中に閉じ込められている。 この禍を生み出している 目に見えない極微小な敵たちの暴走に、現在はまだ 抗う術もなく。



これまで ごく普通に やりたいことが出来ていた当たり前の生活が、 実は 奇跡的に幸運な日々の積み重ねだったーーということに、 この異様な状況下に置かれて つくづく思い知らされる。

昔「復活の日」「アウトブレイク」などといった映画があったが、 それらを彷彿させるような世の中が いつかは現実のものとなってもおかしくない、とは想像していた。 しかしよもや 自分の生きているあいだに本当に そうした世界に迷い込んでしまうとは・・・。 地球全体が、不気味な異次元へのブラックホールに すっぽりと呑みこまれてしまったが如く。


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明けない夜はない、止まない雨はない、と言われるように、いつかは この悪夢にも終わりは来るはず。 実際このほど39県で 緊急事態宣言が解除され、徐々に復旧の見通しが立てられようとしている。 しかし その段階まで到達した後、 果たして100% 元通りの生活に還ることが出来るのだろうか?  やっと大手を振って 自由に動けるときが訪れ、晴れてどこにでも外出することが可能となっても、 仕事の場を失ったり お気に入りだった店舗等が軒並み閉店していたり・・・ という顛末になっている懸念があるし、そっくり元のままの日常に再び戻れる保証はない。 現に「新しい日常」などという しっくり来ない不慣れな生活スタイルが提唱され始めた。 したがって今の この状況が完全に過ぎ去っても、わたしたちは相変わらず当分の間、 未知の異次元を彷徨い続けることになっても 不思議ではない。

それでも必ず今日が終わり、明日がやってくる。 その一日一日を、何とか生き延びていかなければならない。 それゆえ嘆いてばかりいず希望を捨てず、事態の好転を信じて 命をつないでいくことに注力したほうが賢明だろう。 この悪夢から覚めた暁には誰と会おう、どんなところに行こう、何をしよう?  それらに楽しげに 思いを巡らせながら。


 



2020/4月/1日

年末年始の不運

あれよあれよ、という間に 令和2年度が始まってしまったが、実は昨年末以来、大病をしてしまった ・・・2019年が残り僅かとなったある日 突然、のこと。 偏頭痛から始まり、やがて「帯状疱疹」だと自覚するのに、そう時間はかからなかった。 この病は大昔、小学校に入ったばかりのころに一度 罹患しているので、 大晦日に症状が 顕著に現れたときには「あ、あの病気だな」とピン、ときた。

とは言うものの身体がしんどくて、元旦も ずっと臥せっていた。 しかし これはもう放っておいて治癒するものではないとわかっていたので、 何とか午後になって起き出し、重い身体を引きずって 近くの休日診療所に向かう。

受付の看護師さんに「これ、帯状疱疹だと思うのですがーー」と、 首筋を見てもらったところ、即座に それと確信したようで、 ロビー片隅の カーテンで仕切られたブースに連れて行かれ、 「しばらくここで待っていてください」と言われた。 そして寒い中、かなりの時間そこで待機(ウィルス性のものなので、万一の感染予防のためなのだろうが)・・・。 40分ほどして漸く呼ばれて診察室に案内されたのだが、そこへ行き着くには 長い待合を通らねばならなかった。 しかしそこで、信じられないくらいの夥しい数の 診察待ちの人びとを 目にすることになる。

世の中が初詣などで 楽しく過ごす人たちで溢れているはずの その日、 新年第一日目の ダークな裏の世界を目の当たりにしたような気がする。 待合いの椅子には寿司詰めと言うか目白押し と言うか、 とにかく尋常でない数の人びと(お子が多かった)が密集し、椅子が足りず立っている人も かなり居た。

目下、世界中を不安に陥れている あのウィルスが問題になり始める その直前のことであり、 当時まだ世間は(少なくとも日本では)その病について話題にも のぼっていなかった ・・・やがて数週間後に マスクや消毒薬が品薄になっていく、などとは よもや想像もできなかった時期のこと。

わたしの病の その後は、疱疹が治まった後の神経痛のほうが重篤だった。 大昔に経験した場合とは異なって 症状が首筋だけでなく頭皮に びっしりと出現してしまい、 頭部神経痛が これまた経験したことのない激痛。 数日のあいだ夜も眠れず、とうとう早朝に救急車のお世話になるハメになってしまい、 結局1月一杯、2月初旬に差し掛かるまで、ほとんど床に横になっていた。 今日現在も、マシにはなってきてはいるものの、まだ痛みは消えていない。 大抵の人はこの病は生涯1度だけ と聞いていたのだが、 度を超えたストレスに見舞われ続けたためか、実に不運な年末年始だった。


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それにしても、今になって改めて あの診療所の光景を思い出して 明言できる。 その時は ただ「わ〜混んでる!」と閉口しただけだが、あの超混雑状態の待合室こそ、 まさに ウィルス感染を広げ蔓延させていく温床と化すに違いない、と。 狭い空間に集う大勢の人びと。換気の具合も悪そうだったし、 あれでは確実に 病気を治しに行って、新たな病気をもらってくることになってしまうだろう。 それでは何のために治療しに行ったんだか、わからない。

いま、この状況下で まさか くだんの診療所が あのときのまま であるはずはなく、 待合いの形態も改善されているべきだと信じたいが、 今回の感染症で世間が大騒ぎにならなければ ずっと変わらず、だったかも・・・そう考えると、何とも恐い お話。


 



2019/12月/28日

令和最初の年の瀬に

ずいぶん長い間、この欄の更新が停滞していた。 これまで「一寸先は闇」という趣旨で繰返し記してきたためか、 それに引き寄せられたかのごとく秋口、わたしを急襲した不運な出来ごとに 年末まで振り回された。

心身ともに疲弊し、自身からは何も出力することは出来なくなってしまったため、 ただただ外からの出力を受け容れるのが精一杯。 そのため、年の最終1クールは、ひたすら ぼ〜っとTVドラマだけを観ていた。

もともと わたしは、ドラマはさほど観ない。 多くても1クールに3作程度だったのだが、 この3ヶ月は実に10作を超えていた (リアルタイムでは観られないので、専らPCの無料配信サービスにお世話になったが)。


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ほんのひととき、清涼剤となって疲れを軽減してくれた、この10作以上のドラマたち。 今回は視聴率が高く人気のもの・話題性のあるものも結構多かったが、 わたしとしては それ以外の地味な作品に、たいへん好きな秀逸と思えるものがあった。 もしこの時期に 自分の日常にトラブルが生じなければ、 このドラマに出逢うことは確実にあり得なかっただろう と思うと、 そういう意味では却ってラッキーだったかもしれない・・・ 不運にも感謝しなければ・・・放映が もう終わった というロスに襲われ、今 淋しい気持ちでいる。

そのお気に入りの作品も含め 年末までに殆ど全てが最終回を迎え、 わたしのドラマ漬けの3ヶ月は幕を閉じる。 こんなにも「ドラマ三昧」の日々は、もう今後の人生で経験することは無いだろう。 わたしにとって 非常に希有な生活パターンを作り出した、2019年最後の1クール。


 



2019/8月/3日

自らの亡きあと

自分の身内たちが 徐々に この世を 順に辞していく歳のころになってしまった。

そして まだ存命の周囲の高齢者たちが、口を揃えたかのように訴える。 自分が死んだ後、この家はどうする だの墓の管理はどうなる だの、なんたらかんたら。

気になってしかたないようだが、ぶっちゃけ自分が逝ったあとのことなど知ったこっちゃないのだから、 放っておけばよろしい。 生きている周囲の者たちが、何とか処理をするだろう。 そんなことを考えるのに腐心し毎日悩みながら時間を経過させるのは、勿体ない。 この世での残りの日々を、もっと有意義なことに集中して生きていくほうがいい・・・ と母に繰返し伝えるのだが、なかなか理解してもらえない。 「立つ鳥 跡を濁さず」と言うからね〜などと母は言うが、 いくら考えても さほど明確な回答は導き出せないのだから、どうにも不毛に感じられてしょうがない。

とは申しても、人ひとり亡くなるというのは、周りの者たちに多大な負担を与える というのは事実である。 お役所や金融関係への届け出・その他 関わっていた人たちへの連絡など、ヘトヘトになるよホント。 だから そんな手続きが少しでも減るというのは、遺された者にとって助けとなるのは確かである。

ここで思い出したのだが 過日、何とも解せない 実に妙な話を聞いた。

ある人が、知らないうちに自分の「死亡届」が出されていた、というのである。 いつの間にか自分は「死んだ」ことになっていた・・・らしい。


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それに気がつき、役所に出向いて 誰がそんな届を出したのかを問い質すと、 なんと「ご自身によって提出されているようです」という答が返ってきたという。そんな馬鹿な!?

それ以上の情報はわからないが、これが本当に実話だとしたら、 そもそも その届の提出時、「死亡者本人」と接した窓口職員は どんな対応をとったの? どのように受理したの? さらには、のちに その経緯を問われたときの職員も、 一体どういうつもりで「本人さんが届けに来ました」などと答えたのだろう。 さらに更に言えば、尋ねに行ったご当人も、どんな顔で それを聞き、帰って来たのかな? ・・・不思議な話があるもんだ。奇々怪々なミステリー。


 



2019/6月/25日

アクシデントは突然に

一寸先は闇、いつどんな災いが唐突に降り掛かってくるかわからないーーーなどと、 これまでそんな意味のことを幾度か記してきたが、それを本当に思い知らされる出来ごとに過日、見舞われた。

買物帰り、自転車で転んでしまったのだ。

ペダルを踏み外してジーンズの裾の内側に入り込ませてしまい、そのまま固定され まったく身動きできなくなって・・・ その瞬間「あ これ、絶対に転ぶだろうな」と確信した。案の定、車体ごと派手に横転。 かけていたサングラスと、荷台に載せていた粉洗剤の箱などが、数メートル先に飛ばされたのが 目に入る。 同時に、周囲のあちこちから発せられる「大丈夫ですか〜!?」と心配してくれる人びとの声・・・。

地面にぶつかった衝撃で、やっとジーンズの裾からペダルが外れた。 とにかく速やかに自転車を起こしサングラスと洗剤を拾いに行かなければ と焦っていると、 近くにいた若い女性が「ちょっと待っていてくださいね」と言いながら小走りに、それらを素早く回収して来てくれた。

ありがとうございます、お騒がせしました、もう大丈夫です・・・その女性にはもちろん、 声を掛けてくれた周りの人びとに頭を下げながら そんな言葉で応え、何とか車体を立て直した (もうそのときは何とも言えず恥ずかしく、情けない限り)。 広めの歩道上で信号待ちの間に起こった出来ごとだったが、「たまたま」近くに車も人も居なくて、 つまり周りの誰も巻き込まなくて済んだ・・・というのは 実に不幸中の幸いである。 倒れたところに後ろから車が走って来ていれば、一巻の終わりだったかもしれない。 ぶつけた左半身も僅かに肘と膝を擦りむいた程度で さほど痛くはなく、 大きな怪我をした というものでもなく、奇跡的に ことなきを得た。

あとになって そうなった理由を考察すると、よくよく反省しなければならない問題点が挙げられる。 それは「伸縮性の無い穿きもので自転車に乗るのは、危険」ということ。


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今回、ジーンズの裾の隙間とペダルの幅がピッタリと同じで、ペダルが見事にその隙間にきっちりと嵌ってしまった。 一旦こうなると、即 その場で外すことは、まず不可能。 あれーっと思う間もなく転ぶしかなかった。 そもそも漕いでいるあいだペダルに直に触れるような、裾に中途半端な隙間がある穿きものは避けるべき! と肝に銘じた。 これからは自転車に乗るときは、じゅうぶんに伸縮性のあるものを選ぼう。 と言うか、丈の長くないキュロットスカートがベストかもしれない。 どうしてもジーンズ等を穿く必要のある場合は、膝の辺りまで捲り上げて乗るようにしないと。 見た目はみっともないかもしれないが、安全性には代えられない。 どうぞ皆さまも、くれぐれも お気をつけて。 アクシデントは本当に予測不能。油断していると、前触れなく突然に! やってくる。

それにしても、傍を通行していた多くの人たちが、 見ず知らずの かくのごとく不注意なわたしを 気遣ってくださったことは心底ありがたく、感謝の気持ちで一杯である。 日本もまだまだ、捨てたものではない。


 



2019/3月/26日

休眠打破

この時節が巡り、桜の話題を幾度 綴ったことだろう・・・今年も日本には桜が咲く。当たり前のように、咲く。 しかしその開花の条件は、思っている以上に けっこう深〜いものであるようだ。

桜の花の「芽」は、前の年の夏に既に形成されているそうである。その後は「休眠」状態に入り、来春の開花時季に なるまで厳寒の冬を過ごし、それによって休眠状態から目覚めて 花を咲かせる準備が出来る・・・と聞いた。つまり 年末年始を経て真冬の冷気を経験しなければ、美しい開花を迎えられないということ。

わたしたち人間にとっては、冬の寒さは出来れば避けたいものであるが、桜にとっては花を咲かせるためには絶対に 必要不可欠の条件なのだ。この煩わしい厳寒の日々を過ごしてこそ、みごとな開花を成し遂げることができる と いうわけである。


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冬のあいだ生命としての桜の感覚が、つぼみの奥で凍えて震えているかどうかはわからないが、そうした困難な 状況を桜はいつも 甘んじて受け止め、耐えて、奇麗に花開く。毎年毎年 例外なく・・・である。「今年の 桜は麗しい/否、そうでもなかった」などという差は多少あるかもしれないが、「今春は桜が咲かなかった」と いう年は、まずあり得ない。いつの年も、酷寒の季節を経たのちに約束通り 必ず咲いてくれる。

逆境は、可能であるなら経験せずに生きていければ それが望ましいだろう。しかし逆境があるからこそ、その 厳しさに耐えて終えたあと、晴れ晴れとした心地よい成功の喜びを味わえるかもしれない。文句を言わず音を あげることもなく、それぞれのつぼみの中で、じっと自分が咲くべき春の日を待つ・・・かくのごとく、桜は偉い! 尊敬し、見ならおう。


 



2019/2月/5日

嘘ばっかり

いつものように、年末年始がアッ という間に過ぎたかと思うと、立春までもが もう終わってしまった。

恥ずかしながら、年賀状も以前ほどは あまり気合いを入れて したためてはいない。 年賀はがきの発行枚数も年々と減ってきている、と聞く。 メールで済ましてしまう現代のご時勢、仕方ないと言えばそれまでだが、 それでも各郵便局で「年賀はがき発売」の幟を出し、販売促進の努力はしているようだ。

しかしながら近ごろは毎年、この幟を目にするたびに「?」と思うことがある。 それは「好評発売中!」というフレーズが掲げられている点である。 妙だと思いません?・・・考えてもごらん、その幟は年賀はがき発売の初日の朝から、局の前に しっかりと提示されているのだ。

「好評」であるかどうか など、発売してみて暫く様子を見てみないと わからないではないか。 売り出しと同時に好評である、と判明するはずないのである(もしかしたら不評かもしれない・・・)。 それなのに初日朝の開局の時刻に、既に その言葉は厳然と示されている。

それからTVの連続ドラマの殆どが年末に最終回を迎え、通常より時間を延長して放送することも多かった。 それを「『緊急』拡大版!」などとTV番組欄に表記している不思議。 そんなもん、番組のスケジュールなど予め組まれているに決まってるでしょうが。 視聴者の注意が向くよう、というのは理解できるが、急遽拡大することにしました! なんてこと、あり得ないでしょ。

ドラマと言えば、1月から始まった京都府警が舞台のドラマを見ている。 この警察署は しばしば刑事ものの題材にされるのだが、どの作品でも 主要人物が 殆ど京都弁をしゃべらんのどす。 皆さん標準語。 でも街中の老舗商店の関係者だけは、取ってつけたように京都弁で話す・・・何とも不自然。 しかしこれはもう、お決まりの暗黙の了解として 受けいれるしかないのだろう。 京都弁ーー(というか関西弁)は、緊迫感を要する刑事ものには不向きだし。


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関東では許容しがたくても関西では笑って許される というものもある。 大阪の街には「店じまい!閉店セール!」と銘打って客の目を惹きつけて商売をしている店舗が幾つかある。 その看板を何十年も掲げつつ「しらっと」いつまでも商いを続けるが、 巷の人たちはもう「そんなもの」「この店は、それがウリ」として独特のシャレと捉え、咎めたりもしない。 この商法は、たぶん東京のほうでは無い(成り立たない)だろうなぁ・・・ そんな商店でも、実際ホントに店を畳む場合もあるが、 そのときは「本当に本当に閉店!」などと声を大にして本気で強調しないと、 誰も信じてくれない。 羊飼いのオオカミ少年みたいなものである。

先般「本当に」そんな店の1つが廃業してしまったがーーきっと周囲に惜しまれ残念がられて店じまいしたに違いない。


 



2018/12月/31日

平成最後の年越し

もう一晩だけ寝て起きれば年が明けている。 正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり めでたくもなしーーーと言われるが、 こうして今回も新年を迎えられるのは まだ生きていてもいい ということなのだろうから、 幸運だと思わなければバチが当たる。 それにしても今夏の猛暑の日々は、いずこへ。 いつの間にか季節がワープし、気付いたら年末まで時間が飛んでしまった・・・という感じ。

清水寺にて発表された本年の漢字一文字は「災」だったが、わたし個人としては その漢字は間違いなく「病」である。 これまでの人生、体調不良に陥る事態もあったが、長くても2ヶ月もすれば復調した。 つまり生まれてからこれまで概ね ずっと元気に過ごしてきたのに、 この3月末 突然の胃の不具合から始まり、他の諸症状も伴って春夏秋と続き、 師走に入って漸く元の体調に徐々に戻ってきた。 つまり9ヶ月間「病」の状態を引きずって過ごしていたことになる。

しかしどんな出来ごとにも、何かしら意味があるはず。 この9ヶ月に及ぶ体調の崩れも、わたしに何かを教えてくれたのだろう。 今まで殆ど健康そのものだったゆえ正直、病気で苦しむ という状況が どんなに辛いことなのか、ピンと来なかった。 そういう人に対して口では たいへんね、おだいじにね などと声掛けをしても、 現にどういう ご苦労をしているのか あまり想像つかなかった。 それを少しでも実感するためには、自ら一度 実際に病を患ってみなければわからないわけで、 そんな必要があったために「何か」が わたしにそれを教え諭そうとしてくれたのかもしれない (厳密にはまだ自律神経の不調が残ってはいるのだが、まぁひところに比べると大したことは無し、としておこう)。

そう言っていること自体が実に不遜な話で、もっとずっと深刻な病気に悩まされる人たちに申しわけない。 今年は例年以上にたくさん 年賀欠礼の喪中ハガキが届いたが、故人の中には まさに病没してしまった同い年の友人も・・・ 四十九日はこの年の瀬だった。彼岸に渡ったばかりの新年を、彼女はどう迎えることだろう。 淋しくなければいいが、先に行って待っていた ご両親とともに 楽しく過ごすことができればいいが、と願う。


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誰しもが幾度かの「送りびと」を経験し、必ずいつかは自らが「送られびと」になる。 間もなく30年に亘った平成時代は幕を閉じるが、同じだけの年月が これから経過したとして、 我が身がまだ この世に留まっていられるかどうか実に微妙。 それでも此岸に残されているうちは、命が与えられていることに感謝しつつ生きていかなければ、と思う。 いずれ自分が旅立つ番が回ってくるまでは。 そんなことを考えて、平成最後の大つごもりも終わろうとしている。


 



2018/10月/31日

南瓜の季節

お昼前に近所のスーパーに寄ったら、食品売場だというのに 入口に場違いなステーショナリーの棚が置かれていて、 ハロウィン用のシールやら帽子やらの雑貨が ずらっと並んでいた。 価格はすべて一律「50円」のダンピング。 ごく最近まで、すべて数百円ほどで販売されていたはずだが、本日のうちに何とか売り切ってしまわないと、ということだろう。

今でも よく憶えている。数十年前 わたしが中学1年生だったときの英語の教科書に、 ハロウィンの話題が取りあげられていた。 西洋ではこの時季、こうしたお祭りが存在して南瓜をくり抜いたランタンが作られて・・・という内容だった。 それを読むまで わたしは、海の向こうでは こんな催しが10月末に催されているなんて、 まったく知らなんだ、初耳だった。わたしだけでなく、たぶん日本では 当時の大抵の少年少女が、同様だったと思う。

時が経ち、いつのころからか このイベントは 若者の間で市民権を得ているらしい(知らない人は、まず居ないだろう)。 年月過ぎて時代が変化したんだな〜と つくづく感じる。この盛りあがりぶり、わたしたちの若い頃には想像もできなかった。

そもそも昔は、この日に関する様々なグッズなど、売られているのを見たこともない。 ある年、お菓子屋さんの店先にそうした装飾が出てきたなぁと気付いたのが最初だが、 それ以降 ほぼ毎年、今ごろになると あちこちで そんな光景を見かけるようになった。

しかし、わたしは1990年から5年間、首都圏暮らしであったが、そのときは渋谷辺りで こんな大騒ぎが繰り広げられてなどいなかった。 お菓子やグッズは既に登場していたと思うが、こうした状況になってしまったのは いつからなのだろう。


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知らないうちに時は流れ、万物は流転する。かつて非常識だったことが 当たり前になり、またその逆もある。 しかし当たり前=常識的、というわけでは決してない。 新しいからいい とは限らないし、大勢の人が 疑問に感じずしていることなのだから それが正しい、というわけでもないはず。

この国は「品」が無くなってきた、と言われることも多いが、 それでも日本人は、底の部分では品性のかけらを すべて失ってはいない と信じている。 現在では毎年恒例の この日の騒ぎは 未来永劫いつまでも続くことはなく いずれは徐々に おさまっていくのでは、と思っている。

それにしても今、南瓜が高い。 胃の具合を悪くしているせいで 一部の野菜を口にすることができないのだが、 南瓜は支障無く食べられる・・・であるから甘煮にして食べたい!のであるが、この値には なかなか手が出ず・・・ ひょっとして、日本でも この時節だから品薄になってる? ランタン作ってる人が増えてるの? そんなことないよね。


 



2018/9月/23日

彼岸の律義者

今年の尋常ならぬ夏の暑さは もうすっかり過ぎ去ったようだが、 前回記述した真夏の赤星・火星は、まだ南の夜空にかなり明るい輝度で光っている。 秋のお彼岸を迎えても、依然として ここまで煌めき続けるとはーーー。 いつしか日が過ぎ、秋分の日の本日を境に、徐々に夜の時間が昼より長くなってしまうのか、と思うと 何だか淋しい。 平成最後となった酷暑の夏、さようなら。

赤星から赤花の話に移るが、かねてより この初秋の彼岸になるたび注視している赤い花が 実家の庭に10本ほど植わっている。 「曼珠沙華」・・・サンスクリット語で「赤い」という意味の「マンジュシャカ」を音写したという この名が 日本でマンジュシャゲ、と呼ばれるようになったそうだが、つまりは真っ赤な火のような、彼岸花の別称である。

なぜに注意を惹かれるかと言うと、この花は その名通り、まさに彼岸になると咲く。 先週 彼岸の入りの前日に実家に行くと 庭のその花の莟が数輪、すっ と茎を真っ直ぐに立てて赤い顔をのぞかせていた。 あ〜もう開花間際だな、と思っていたら、案の定その翌朝、つまり彼岸の入りの日の朝、みごとに揃って満開となっていた。

これほどまでに暦に忠実な、律儀で真面目な花があるだろうか。みずからの名前の意味をちゃんと理解し、その通りに花開く。 今までの観察に基づくと、どの年もほぼ、その彼岸の入りの日を間違えることなく、狙いすましたごとく咲く。 不思議なことに。


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ところで先に記したように、この花は赤色を示す「マンジュシャカ」が語源らしいが、白色のものもあるということは、 あまり知られていないのではないだろうか。 そもそも目にする機会が少ない。 以前17年も住まっていた家の近くに、この時節になると 白いヒガンバナが 美しく群生していたお宅があった。 わたしもそれを最初に見たときに初めて、この花に白い種類があるのだ と知ったのだった。

それはそれは気高い光景で、普段見る赤いものとは また異なる清楚な印象であった。 もともと曼珠沙華とは「天井の花」だとされていた、とも聞く。 ならばむしろ、この呼称に相応しいのは 白花のほうかも、という気がする。 かつて暮らしたくだんの地域からはもう離れてしまったが、 今でもこの時季、あの場所・あのお宅の庭先に、白いヒガンバナは変わらず咲き誇っているのだろうか・・・ その後 めっきり見かけたことがないだけに、あの高貴な趣が懐かしい。


 



2018/8月/2日

真夏の赤星

梅雨最中の大きな地震のあと 七夕の豪雨。 梅雨が明けると常軌を逸した連日の炎暑、そして動きの読めない逆走台風。 この夏の関西、これら一連の自然災害・天候気候は まったくもって 尋常ではない。

今回の梅雨明けは早かった。それだけに真夏が長〜く感じられる。 何日も何週間も灼熱の日々が続いている気がするが、実際は やっとこさ7月が終わったところ。 まだまだ暑さの終わりは見えず、もう勘弁してよ!と叫びたくなる。

そんな中、明るい話題も・・・その通り「明るい」話。

数日前、夜遅く銭湯に行く道すがら空を仰ぐと、南東方向に浮かぶ大きな朱色の星が 著しい輝きを放っていた。 そのまま西方向に視線を転じていくと さそり座のアンタレス、土星、さらには木星までもが視野に入り、 たいへん豪華な眺めに感激した。 最初に目を射た 群を抜く高輝度で光るのが、火星。今夏は 火星の大接近の時期なのだ。

やはり赤い巨星・アンタレスは、ギリシア語で「火星に似たもの」を意味する言葉が語源らしい。 両者は 天球上で近付く場合も多いため、実際よく火星に間違われることもあったのだろう。 が、この夏 鮮やかさにかけては比べるまでもなく火星に軍配が上がり、アンタレスは完敗である。

そんなことを感じながら銭湯の脱衣所に足を踏み入れると、年配の常連さんが2人、世間話をしていた。

 ーー向こうの空に、明るーい赤い星が見えるよねぇ。  ーーあ、それ、最近ニュースでやってる、火星なんじゃないのかなぁ。  ーー大きな星でさぁ。確かなことわからなくて自信ないけど、やっぱりあの星が、そうなのかねぇ。

そうですよ奥さん自信持ってくださいな。それこそ紛うことなき火星ですってば。 日頃そういうのに興味が無い人であっても、今回だけは あの妖しげな眩しい光は、 夜空のその付近に目が向くだけで 鋭く視界に飛び込んでくる。


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くだんのアンタレスは古代より中国で「大火」と呼ばれ、夏の暑さは この星のせいだとされていた と聞いたことがあるが、 それを凌ぐ明るさ・赤さの火星により 今夏の異常な猛暑が もたらされたのかも と思うと、この大接近は まさに象徴的。

見頃は9月を迎えても 続くらしい。ということは、それとともに残暑も まだ当分、秋口まで尾を引くことになるのか? そう考えると、ほとほと うんざり。暦の上でこそ立秋は来週に迫っているが、なかなか終わりそうにない、今年の夏・・・。


 



2018/7月/1日

油断大敵

諸般の事情により、この日記欄は3ヶ月も滞って 更新凍結を余儀なくされたのだが、 先日 実に久々に新たに追加を試みようと思い立った矢先、大阪北部に大地震発生。 まさか 自分の出身市が「被災地」と呼ばれることになろうとは・・・。

わたし自身の今の生活地域も大揺れで、 居住する古い木造長屋は 唐突に縦方向に ドン、ドン、と突き上げるような衝撃に襲われた。 一瞬「あ〜この家、潰れるかも」と覚悟して腹を括ったが、怖れていた時間差の横揺れに見舞われることなく、 何とか収束した。損傷を受けた家屋も多く、悲痛にも人的被害まで生じてしまい・・・自分が現在、 こうして普通にパソコンの前に座っていられる日常に、感謝しなければならない。

今回に限らず かくの如き 突然の天災や事故事件が起こると、運の良さ・悪さについて つくづく考えてしまう。

ひと昔前に数日間上京したとき、最終日の 昼下がりに 人びとで賑わう秋葉原を歩いた。 大きな交差点の周辺を ひとしきりうろついた後、山手線に乗って東京駅まで出て、 そのまま新幹線で帰途についた。 自宅に戻り一晩が経って翌日の午後、何気なくテレビをつけたら 臨時ニュースが流れていて大騒ぎ。 なにごとか、と暫く画面に釘付けになっていると、昨日わが身を置いていた あの繁華街の街並の映像が・・・。 多くの人たちが次々と犠牲になった、例の通り魔事件である。 まさに前日の同時刻ごろ、わたしは その場所をウロウロしていたのだった。

スレスレのところで不幸を免れた、と簡単に言ってしまえばそれまでだが、 いったい不運に見舞われる、とか幸運に恵まれる、というのは どういうことなのだろう。 ほんの一日、たった一日ズレていただけで わたしは難を逃れ、逆に他の人が災いを被ってしまった。 運命のルーレットを巡る不幸の玉が、自分の番号を なんとかギリギリで通り過ぎ、 すぐ隣の番号にコトリ、と止まった・・・例えて言うと、そういう印象。 いやもっと危機感のある例えをすると、綱渡り という表現になるだろうか。

ぐらぐらとした細い綱の上を、ふらつきながら 終わりの地点に向かって 覚束ない足どりで ひたすら歩き続ける・・・ 人生とは、それほど不安定なものなのかもしれない。 順調に前進しているように見えても、思いもかけぬ場所で 予想もしない瞬間に、 ふぅっと横風が吹いてきたりして。あっと思う間もなく落ちてしまうと 二度と綱の上には戻れない。 その場合はその時点で人生終了。 すんでのところで 綱を掴んで 落下の危機を食い止めたとしても、 もとの体勢まで立て直すのは そう容易ではないことも多い。


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そのような事態になるのを避けようと、人は 必死でバランスをとって歩を進めながら、 毎日を生きているのだろう。 大抵は綱の上を最後まで辿りきり、「順当な終着点」まで行き着くことが出来るわけだが、 反対に途中で 意に添わない落下の憂き目に遭ってしまう場合もある。 自分自身が前者となるか後者となるかは、誰にもわからない。 ただわかっているのは、後者となってしまう確率は、すべての人に等しく割り当てられている ということ。

本日一日、なんとか綱の上に留まっていることができたとしても、 明日は?明後日は?・・・不意に綱から落ちてしまうような運命に陥ってしまわないことを願いつつ、 来る日も来る日も 慎重に綱渡りを続けていくしかないのだ と思っている。


 



2018/3月/26日

桜ばかりじゃなく

春のお彼岸が明けた直後だが、ちょうど10年前の今日、父は その彼岸へと旅立った。 そのとき火葬場へと向かう途中の土手に咲く桜の様子については 以前に記述したが、 今年も この時季、あちこちで開花の便りが聞かれるようになった。

「開花情報」と言えば、桜。「お花見」と言えば、桜・・・満開ともなると、 日本中が「春の花は桜しかないんじゃないか」と思えるほどに、皆が この薄ピンク色の花に夢中になる。 しかし、その華やかさの陰に隠れながらも 清らかで美しい樹花が、ほぼ同時期に満開を迎えている。

その花言葉は「気高さ」「高潔な心」「荘厳」などと聞く。まさにそうした表現が似合う、凛とした佇まい。 ぜひ その花ーー「ハクモクレン」ーーにも、皆さん目を転じてほしい。 陽光の明るい日に電車に乗ったときなど、窓の向こうに その並木が何本も続く光景が広がると、 なんとも目に心地よく眩しい。まるで木々に 白い小鳥か蝶が 密集して留まっている、という印象を受ける。 桜に注目してばかりいて、落ち着いた上品さを感じられる この春の逸品を見逃してしまうのは、じつに残念である。


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しかしながら わたしとて その清楚な白花を好むようになったのは、ここ数年のこと。 10年前 父が逝ったあの春の日、やはり桜の景色ばかりに目を奪われていた。 その年、そして当然だが 時代を遡って ずぅーーーっと昔から、桜と時を同じくして ハクモクレンも この国の あちこちで 花を咲かせていたはずなのに、あまり気付くことは出来なかったのだ。 勿体ないことをした・・・桜色よりも白色のほうが、亡き者を悼むのに相応しいではないですか。

この時季、三途の川に沿って ハクモクレンが咲き乱れているような気がする。 ひと昔前 父がその川を渡ったとき、白く崇高なその並木を見ただろうか。


 



2018/2月/16日

アリスのドレス

年の瀬から年初にかけて 実家の事情でバタバタしているうちに、気がつけば1月はとっくに去り、 2月も半ばに差し掛かってしまった。 今冬は厳寒の日々が続き、地域によっては豪雪。春はいつやってくるかと気を揉んでいる。 ここ数日、ほんのりと 微かに暖かな空気が漂うのに気付くようになったが、 しばらくするとまた、真冬の気候が戻ってくる と聞く。 確かな春の兆しを感じるのは来月までは お預け、かもしれない。 とは言っても南国・鹿児島のナノハナ畑は今もう満開となっているそうで、 ひとあし先に 春の訪れを迎えているようだ。

春の物語、と聞いて わたしが思い浮かべるのは「不思議の国のアリス」 (登場するウサギのキャラクターが「三月ウサギ」と称されているからだと思う)。 わたしは毎年 その時季になって川や森を見るたび、この物語を思い出す。 結局最後は「夢オチ」で終わるお話であるのに世界的な人気が高いのは、 作者が数学者であるゆえか 凡人の想像の域を超えたハイテンポな展開が痛快、と感じられるから かもしれない。

最近、この物語のオリジナルを詳しく調べる機会があった。 その過程で最も驚いたのは、主人公アリスの服の色である。 どうやら作者 ルイス・キャロルがイメージしていた色は「黄色」だったそうである。 しかし世の中の殆どの人たちにとっては、圧倒的に「青」の印象が強いのではないだろうか。

原作そのものに アリスの服の色についての言及は無いから、読者それぞれが自由に想像していいはず。 にもかかわらず「青いドレス姿のアリス」が あまりに大勢の人びとの脳裏に刻まれているのは、 ディズニーがアニメ映画として仕立てた際、彼女の服を青で彩色したから と考えられる。 人は視覚で入ってくる情報に 最も大きく影響されるのだろう。


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そうか、アリスの服は もともとは黄色だったのか・・・これは なかなか驚愕であった。 でもよく考えてみると わたし個人としては「春の物語」であるので、 青よりは黄色のほうが この季節に似合っていると思う。 ナノハナの色、タンポポの色・・・お話の舞台、 イギリスにおいて これらが春の花として 広く認識されているかどうかは わからないが。


 



2017/12月/10日

自分だけの副作用

わたしとしては非常に珍しく、先月は体調不良 だった。 月初めからひどい咳風邪・喉風邪をひき、その病状が概ね治まった後も胃の不快感、ふらつき感に襲われ、 本調子に戻るまでに一ヶ月余りを要した。 11月は誕生月だったのだが、その時期に相応しからぬ情けない具合の悪い状況が、何とも長く続いてしまった。

今では殆ど回復しているが、この期間は本当に 説明し難い不調に悩んだ。 病院へは行かなかったが、仮に診てもらったとしても原因は曖昧、 さしずめ「不定愁訴」「自律神経の乱れ」などで済まされてしまったことだろう。 しかし普段まず病気はしないので、そもそも病院・服薬が好きじゃない。 殊にかつて、処方された服用薬の「副作用事件」があって以来 顕著である。

ふた昔ほど前、爪のトラブルで皮膚科を訪れ 飲み薬を処方してもらった。 この症状には ごく一般的な投薬であり、 大抵の患者は それを飲んで問題なく完治へと向かうのであろうが・・・わたしの場合は、違った。

詳細は述べないが飲み始めて間もなく、明らかに尋常でない症状が身体に現れた。 あれっと驚いて試しに服用を止めてみると、その症状も治まる。 再び飲み出すと また始まる。紛うことなき その薬の副作用、としか考えられない。 次回来院の予約日まで待てず、取りあえず その皮膚科のある病院の、 処方してくれた院内薬局へ赴いて 症状を説明して尋ねてみた。

応対してくれた薬剤師さんが、資料をめくって その薬の副作用記録を念入りに調べてくれたが、 最後には「そうした副作用は報告されていませんね・・・あり得ません」という回答。 いや、これまで確かに報告は無いのかもしれないが、現に わたしのこの身に その現象は、厳然と起きているのだ。 釈然とせぬまま仕方なく帰宅し、結局 残りの薬を飲むのは、やめておいた。

次の通院日、わたしを診てくれる皮膚科Dr.に訴えてみたところ、 「原因はどうあれ疑わしいものは使うのは止めましょう」という診断により (まだ若く奇麗な女医さんだったが、サバサバした人のようで助かった)、 あっさりと別の薬に変更してくれた。 その新たな薬は特に問題なく、しばらく服用しているうち爪のトラブルも解消された。


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あれは何だったのか、と時どき思い返す。 これまでのデータだけを参考にし、その範囲内でだけしか結論を導かない。 それはじつに偏狭な考察だと思う。 この世の他の人びとには一切当てはまらないということであったとしても その薬による副作用症状は、 わたしに対してだけは絶対に「陽性」だったのである。 今まで一人もいなかったからと言って「あり得ない」と切り捨ててしまうのは、どうなのか。 人間の身体とは そう単純ではなく、想像するより遥かに繊細で複雑、人それぞれ異質のものなのだ。 単一パターンとして ひとくくりに考えるべきではない と思うーーその問題の薬の名は、迂闊にも失念してしまったが。


 



2017/10月/16日

ラッコの哀愁

カリフォルニアの山火事が、一週間経っても鎮火していないと聞く。 ひとまとまりの住宅街が 丸ごと焼かれてしまった地区もあるようで、 殆ど全てを失われた人びとが どれほどいることだろう。

最近、たて続けに持ち物を紛失してしまった。重宝して大切に使っていた物ばかりで、残念至極。 しかしそれは所有物の ほんのごくごく一部にしかすぎず、 上記の如き災害に見舞われた人たちのことを思うと、これくらいで嘆いているわけにはいかない。

さて人間以外の動物たちは、いっさい物を持たない。 自分の身ひとつだけで、生まれてから死ぬまでを 何の問題もなく過ごす。 程度の差はあれど、「物」に執着してしまう厄介な生き物は、 地球上でヒトだけであろう・・・と ずっと思っていたが、人間以外にも「物」を 大事に携行する動物がある と知った。 ラッコである。

彼らはよく貝の殻をコンコン!と お腹の上で叩き割っている。 その際に使う石は、マイストーン。つまり自分専用の石をお気に入りの道具として、いつも携えているらしい。 脇の下の皮膚の辺りがポケットの役割を果たし、いつも使用する石を収納しておけるという (このポケットには 食料を保存したり遊び道具を入れたり という、別の用途もあるんですって)。 さらには自分専用の石を、他のラッコに自慢することもあるとか。 そしてその お気に入りを無くしてしまうと、食事も出来ないくらい落ち込んでしまい、 代替品を与えても受け取らないそうな。 わたしたちと変わらないよね。 大切な所有物を失ったことが、本当に残念で悲しくて しかたないのだろう、人間っぽくて面白いなぁ。


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このラッコたちについて先日 新聞で読んだのだが、 国内の飼育数が激減しているようである。 最高齢だった大阪・海遊館のメスラッコも、先週 老衰で大往生を遂げた。 20余年前には日本で122頭も飼育されていた彼らは、今や11頭しか存在していないとか。 繁殖も思うように望めず、ワシントン条約で輸入も規制され、 このままだと いずれいつかは この国での水族館で、彼らを目にすることは出来なくなってしまう。 でも本来それで正しいのかも。 環境変化などのストレスにも弱いそうで、自然のまま「海のどこか」で野生で暮らしていくことが、 彼らにとっては一番しあわせなのだろう。

ところで ラッコたちは、アワビやホタテ、ウニなどの「高級食材」を毎日摂取しており、 人間からすると「な〜んて贅沢な!」って思う。 それには彼らなりの理由があるようだが(ここでは割愛)、食費が1頭あたり「1日」1万円超えの施設もあるようで。 これ、つつましく生活している わたしの「1ヶ月」の食費と変わらんやん・・・あぁ羨ましいラッコになりたい・・・。


 



2017/9月/17日

続・デパート屋上遊園地

3年前の大晦日、デパート屋上遊園地の話を書いた。 その際、関西で唯一それが残っている「高槻松坂屋」に関し 「気候天候の良い休日に様子を伺いに行ったことがない」と記したが、 このまえの日曜が おあつらえむきの「秋晴れの休日」となったので 視察のため出掛けていった。

幼児を連れた数組の家族連れがポツポツと、ざっと見た限り 10人ほど。 概ね思っていた通りの様相であった。 遊具は ゴーカートのほかポケモンキャラクターとかバス操縦席を模した乗り物など、これもだいたい想像通り。 だが秋晴れの休日で お客の入りが この程度というのは、やはり何とも心許ない。


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しかしそれでも、意外なところに関心の目が向いた。 連日 ほとんど使われることが望めない各遊具が、 どれもみな奇麗に磨かれてメンテされている という様子が見て取れるのだ。 加えて、新しく設置されたばかりかな? と想像されるピカピカのものも少なくない。 それは、決して この屋上遊園が 軽視されているわけではない、という事実を物語っている。 当面は 意地でも閉園させる予定はない、という気概さえ感じたのだが・・・。

帰宅して ちょっと調べてみると、 この「高槻松坂屋」自体に 閉店の危機が忍び寄っているとかいないとか (関係者の方がたには失礼ですがーーごめんなさい)。 かつて国内・国外合わせ かなりの店舗を構えていた「松坂屋」は、次第に その数を減らし、 今では日本に5店舗しか残っていない。 その中で 西日本で唯一生き残っているのが、この高槻店である (とは言え これとて現在では、大丸京都店の分店として運営されているらしい)。 そんな超貴重な存在が無くなってしまう事態は絶対避けてもらわねば・・・仮に閉店ともなると、 それはすなわち関西で たったひとつだけの屋上遊園地が姿を消す、という結果に繋がってしまう。非常に困る。


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少なくとも まだ当分は存続するであろうが、こういうタイプの遊び場は いまどきの幼子たちには流行らないのかなぁ。 昭和ブーム なんて よく言われるが、結局は際物的な流行にすぎないのだろう。 雰囲気だけ何となく新鮮なもののように感じて楽しむだけで、 本質的な「垢抜けない魅力」を根っから好む奇特な子供や親子連れは 希有であるのかもしれない。 それでも、その少数派の人びとが 完全にゼロになってしまわないよう 願ってやまない。

ところで前回(先月)の記述は 台風襲来日であったが、偶然にも本日もまた、大型台風に見舞われている。 こんな荒天の日は あの遊具たちは カバー等をかけられて保護されているのだろうか・・・なんだか気になって心配である。


 



2017/8月/7日

立秋・台風

ほぅらアッという間に立秋になっちゃった。それにあいにく台風まっただ中。

日本列島は、台風銀座。 しばしば甚大な被害をもたらす台風が繰り返し襲来する。 よく知られる「室戸・枕崎・伊勢湾」は、何十年も前 各地に猛威をふるった「昭和の三大台風」と呼ばれているものだが、 いずれもわたしが生まれる ずっと前の災害にもかかわらず 一度覚えると それらの名を忘れることはない。 何故か?

それはもう、それぞれが番号ではなく 固有名詞の呼称が付けられているから、という理由に尽きる。 そのほか米国占領下の時代では ジェーンとかデラ、などという女性名もあるが、 米国主導で命名されたことへの善し悪しはともかく、これらも印象深いので まず忘れることはない。

翻って、昨今の台風は どんなに大きな被害に見舞われたとしても「平成◯年△号台風」で終わってしまう。 単に数字だけの名称では、 この夏の あの台風の際は大変だったなぁー なんて ひととき覚えてはいても  そのうち年が改まって暫くすると あれ△号だったっけ? と、もう記憶から薄れてしまう (ごめんなさい被災地の方がたにとっては 忘れられるはずないでしょうがーーー)。

どうして昔のように固有の名を付けないのかな と思っていたら、 どうやら2000年から 日本を含む14カ国加盟の「台風委員会」が、 10個ずつ名称を出し合って 発生台風に順繰りに それらを名付けていく、という作業をやっているらしい。 わりと最近になって気象庁のHPで知ったのだが、それによると 「台風の名前は繰り返して使用されますが、大きな災害をもたらした台風などは、 台風委員会加盟国からの要請を受けて、その名前を以後の台風に使用しないように変更することがあります」とのこと。

ん?そのわりには、ここ何年か夏季になると大きな台風に襲われるけど、 ニュース等で そんな固有の名で呼ばれていたことは殆ど無いように感じる。 個人的には 甚大な被害をもたらす台風については 基本的にそうした名で優先的に報道し、 「△号」という呼称は副次的であるほうがいいと思う・・・人びとに忘れられることなく教訓を与えるためには。 そうすれば 何年経っても記憶に かなり刻まれているはず(どうしてそうしないのだろう?)。


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確かに気象庁発表の台風情報を見ると、固有名称も併記されている。 今回の5号は「ノルー」というらしい(韓国が用意した名で動物の「ノロジカ」の意味だそうな)が、 一般の人たちにも広く知られないと あまり意味ないんじゃないかなぁ・・・ その「ノルー」は異例の長命台風となっているようだが、極力被害が出ないように、と願う。

台風報道でニュースの大部分が占められ、本日の暦を意識している人は少ないだろう。 でも今日は、立秋。 「野分」の時節の始まりとしては、まさに相応しい日ではあるのだが。


 



2017/7月/15日

真夏のピークは・・・

あれよあれよという間に季節が進み、いつしか文月も半ばに差し掛かり、もう月の下旬に突入。 最寄り駅前に植わっている数本の桜の木にも、クマゼミたちが集まり始めて 賑やかに合唱を奏でている。

梅雨明けも秒読みで、じきに灼熱の夏本番を迎える。 ところで2014年の立秋のころ、「真夏というのは思いのほか短い」という記述をした。 それから約3年経って、自身の真夏に対する認識が 微妙に変わってきたようである。

やっと梅雨が明けたあとは「真夏」がスタートする・・・大抵は そう考える人が殆どだろう。 かつては わたしもそう思っていたし、 今でも暑中見舞いのコメント等で「梅雨が明けて夏本番を迎えーー」などと書いたりしている。 しかし内心は今、「真夏のピークは 最早 過ぎ去ってしまったのではないか」と感じている。

毎年まず例外無く、夏至の日は梅雨のさなかである。 「夏」に「至る」・・・つまりその日辺りが夏の頂点で、 7月に入る時分には もう晩夏へと近付きつつある、という印象を 最近は受けてしまうのだ。 その理由を 探ってみると、 ここ最近は初夏あたりから「真夏日」と呼ばれる高温の日々が多く出現するからではないか、と推測する。 つまり夏本来の気候天候が かなり前倒しされているわけである。 今年も ご多分に漏れず随分と暑い日が 5月ごろから続き、 入梅後しばらくは 嘘のように晴天が続いて気温も上昇した。 そういうわけで、真夏と言われる暦に達するときまでには 既に身体が熱さで だいぶ疲弊している。 したがって梅雨が過ぎ去り「さぁいよいよ夏の盛りですよ〜」と言われたところで ピンと来ないのだ。 ここに至るまでに もうかなり「真夏らしさ」を体感してきているゆえに。

そういうことで、自分としては早や「夏」はもう終焉へと向かっている。 来週は土用。鰻の話題も、これから。 そもそも子供たちの夏休みさえ 始まっていないところも多い(大抵は21日くらいからか?)。 今後展開される夏真っ盛りの楽しみを満喫しよう、とわくわくしている世間の多くの人びとに逆らい、 情緒がわからず空気も読めず申しわけないが、わたしはこの時季「晩夏の忍び寄り」の気配を感じるのを否めない。 その多くの人から見るとどうにも奇異で アマノジャク、とまで言われそう・・・ 猛暑だって、一層これから厳しくなっていくことだろうに。


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ところで最初にクマゼミの話をしたが、そのほかツクツクボウシだのヒグラシだの、 日本には色んな種類のセミがいて、それぞれ鳴き声も異なって面白い。 昔から俳句にも詠まれ、とても趣深い夏の「音」の風物詩である。 しかしそのようにセミの鳴き声を愛でて季節感に浸る、という親しみかたが出来るのは、日本人だけらしい。 他国では雑音にしか聞こえないようで(実際セミが生息していないところも多し)、 現に 日本の某時代劇ドラマが米国に渡る際、夏の戸外場面の心地よいBGMであるはずの蝉の声は 消去処理されたそうだ。 あちらの方がたには耳障りだ! と嫌われるそうな。 意外にも われわれ日本人の感性は 特殊で少数派ってこと・・・?  でもその少数派として、 この国でセミの声を素直に楽しめる幸運を、有難いと思う。


 



2017/6月/6日

「46!分の1」の選択

またまた前回からの、つづき。

その話は 高校2年時代に遡る。わがクラスは、毎週のように生徒主導で「席替え」を楽しんでいた。

総勢46名、最前列の角から順に最後列 角の席まで 1から46の番号を振り、 男女いっしょくたに毎回 阿弥陀くじで各自の番号を決め、その席に座る。 当時は考えもしなかったが、果たして46名の席の並びは何通り存在するのだろう?・・・ まさにその時分に習っていた数学の「順列組み合わせ」の知識により、 単純に考えて46!(46の階乗)ということになる。 ひとことで そう言ってしまえばそれまでだが、具体的には如何なる数字なのか?

46の階乗、すなわち1×2×3×・・・×44×45×46。4か5あたりまでは まぁこの程度か と微笑んでいることもできよう。 だが7か8あたりで これは ちと ただごとではないぞ と気付き、10 を過ぎるころになると 先ほどの微笑はどこへやら。 あまりの数の大きさに血の気がひき、早やこの段階で「階乗」の おそろしさを悟ることとなる。

その怖気を何とか払拭して46まで掛算を続けると、最終的に どれくらいの巨大数になるのか。 これはもう自分ではどうしたって無理なので、このサイトに お世話になった → http://www.nap.st/factorial_calculation/?lang=ja

46!の欄に記された夥しい桁の数字を端から数えてみると(画面上で確認するの苦労したわ)約5.5×10の57乗。 何と単位は「十阿僧祇」! おぉ〜!!遂に遂に、ここまできたか!!!と感激 しきり。 宇宙に関しての考察では全く届く気配さえなかった この高次の単位に、ようやく到達できて感無量である。

さて、これで喜んで終わりーーというわけではない。 次は「その 5.5×10の 57乗通り の席の並びを全て出力するとしたら どれだけ時間がかかるか」という計算に挑戦してみる。 日本が誇る 「京」は、その名の通り1京回もの演算をたった1秒で終える というスパコンだが、 その「京」に頑張ってもらうとすると、どれくらいで済むものか?

ここから先、まさしく常識を遥かに超えた 信じ難い結末が待っている・・・ その 計算過程は あまりに繁雑すぎるため ごそっと省略するが、 ざっとドンブリで「1.75×10の34乗年」という解を得た。 前回記述したが 宇宙の年齢「約140億」という数値は、たかだか10の10乗程度。 つまり「46!」 の席の 並び方を「京」が宇宙開闢の瞬間から出力し続けていたとしても ま〜〜〜ったく無理。 宇宙の「生涯」を あと何度繰り返せば辿り着けるのか? というレベルである 。

さらに付け足すと「量子コンピュータ」なるものが研究されているようだが、 これは現スパコンが1億年かかる計算を1秒で こなしてしまう というオバケみたいなシロモノ、と聞く。 しかし仮に その超々驚異的なコンピュータを駆使しても、 この計算は これまた今までの宇宙の年齢だけでは まだまだ ぜんぜん おはなしにならないほど 足りはしない。


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昔、高2クラスで頻繁に おこなっていた席替え。 その組み合わせ「46!」という数字が、もう失神するほど極めて途方もなく巨大なものなどとは、 あの頃いっさい意識さえしなかった。 しかし実際、現に その「46!」種類の席の組み合わせのうちから、その都度「46!分の1」の並びを選び取って座っていたのだ。 オバケのような量子コンピュータを以てしても 「この宇宙が何度生まれ変われば 出力終了できるのか」という気が遠くなるほどの数の順列の中、 ごく簡単な阿弥陀くじで導いた たったひとつ「5.5×10の57乗分の1」の結果にしたがって。 毎週一度、すこぶる身近な日常で。

結論。「天文学的」な数値とは、決して「天文学」の中に見つかりはしない。 そして遠いところではなく、こんなにも近いところに奇蹟のように、 しかも さりげなく存在したりする。 まるでメーテルリンクの「青い鳥」のごとく。


 



2017/5月/22日

「天文学的数字」って?

前回の、つづき。

地球の円周をmmで表すと 「わずか」400億mmにすぎない と、先月 書いた (普段「豊洲市場への移転費用は当初の概算400億円」とか「東京都の年間予算は13兆ほど」などというニュースに触れていると、 億とか更に兆くらいは 日常 耳にしている単位 という印象が定着し、巨額さを認識する感覚がマヒしてしまうかのようだ)。

ところで巨大数を表現するとき「天文学的な数字」という言葉が使われる。 その通り地球とか宇宙に関係する話なんかの際、特に。 しかし「天文学的な」って、本当に そんな驚愕するほどの物凄い数字なんだろうか?

そこで思い切って「宇宙の大きさ(=直径)をmmにすると どれほどになるか?」という無謀な計算を試みた。 そもそも宇宙の正確な直径など、判明してはいない。 例えば300億光年 とか言われるが、もっと遥かに大きいかもしれないので、 いっそ「およそ1000億光年」と仮定して計算してみることにした。 手間・ひま・知力体力を駆使して導き出した数値ーーー (ざっとドンブリ勘定だが この規模ともなると、多少の誤差など何の問題もないからねぇ) 計算間違いがなければ 概ね10の30乗、という結果が出た。

「10の30乗」というのは どうやら「百穣」になるらしい。 確かに普段の常識的な物差しで考えると えらく大きな数であるのだが、 冷静になってみると「兆」の上が「京」、そして「穣」というのは そのほんの3つ上の単位でしかない。 これって宇宙の大きさとしては やっぱり思っていたよりも ずぅ〜〜っと「たいしたことない」って思いません?  想像すら全く不可能で 途轍もなく甚大な宇宙の直径が ミリメートルで表したとしても たった「100穣mm」 ← この程度でしかないなんて。 巨大数を語るとき必ず出てくる単位に「無量大数」なんてのがあるが、 それは10の68乗(他説も有り)で京の13段階も上の単位。 「穣」など、その足もとにも 遠く遠く及ばず。百穣を百穣倍したって まだまだ無量大数に達しない。

ついでに 約140億年程度と見積もられている宇宙の年齢を「秒」で計算してみると ざっと4.5×10の17乗秒。 つまりこれとて「45京秒」にしかならない。 宇宙開闢ビッグ・バン以来刻み続けられた秒数が「たかだか」45京秒にすぎないなんて、 実に意外で信じられないほど小さな数だと感じるのは わたしだけだろうか。 それを著しく凌ぐ多くの数の単位が現に設定されている という事実を改めて確認すれば、 そのあまりの「僅少さ」に仰天するだろう。 ⇒ http://www1.odn.ne.jp/haru/data-list/number_01.html


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ことほどさように はかりしれない超絶的なスケールであるはずの「宇宙」に関するこれらの数値・・・大きさをmmで、 年齢を秒で示しても これっぽっちにしかならないとは。 「天文学的」な数字と聞いてイメージされる、 無量大数のほか不可思議とか那由他などの単位・・・現実には そんなレベルまでは 到底 全然 一切 皆目 とてもとても届きはしないのだ。

「天文学的」な数字は実際の宇宙には あまり縁が無いだなんて 妙な話。 しかし この世界には「天文学」より もっともっと「天文学的」な分野が存在する。 そしてそれは、存外 身近で親しんでいるものだったりするのだが・・・さらに つづく。


 



2017/4月/15日

想像絶する多角形

「理数」に関しては からっきし、である。 なにしろ高校時代、物理のテストで「8点」を取った輝かしい実績を持つ(もちろん100点満点で)。 しかし数学科学トピックスの「うわっつら」だけを浅く学ぶのは、けっこう好き (繁雑すぎる理論はダメ)。 円周率に関しては 小学生のとき憶えた 小数点以下30桁は、いまだに忘れていない。

最近 図書館で借りてきた本に、その 円周率「π」に関する研究の歴史の記載があった。 それによると16〜7世紀、 ファン・コーレンなる数学者が πを計算するために円周を多角形で近似して、その辺の数を増やしていったらしい。 そして最終的に なんと 「正461京1686兆2738万7904角形」という途方もない数の多角形まで辿り着き、 35桁までのπの値を出した、とか・・・億の上の単位が兆。さらにその上の、京。気が遠くなる。

はたして、その「461京〜〜」などという 尋常ならぬ正多角形って、どんなものなのだろう?

そこで先ず思いついたのが、地球1周は「何ミリメートル」であるのか。 厳密に言うと表面に沿って1周分をチマチマと1ミリメートルの直線(辺)で刻んでいくと、 ひとまわりで「正何角形」になるのか (因みに 畳の目ひとつひとつが概ね1mmほど、と考えると わかりやすいかも) ・・・さぁどんな数値になると思います?

さて計算してみましょう。 地球が完全な球体であるとして、大円の周囲は約4万km。 メートルだと4万×1000で4000万m。 センチメートルなら4000万×100で40億cm。 さらにミリメートルだと10倍して400億mm。 ・・・ん・・・?これで終わり・・・?「400億mm」← えっこれが正しい解答なの??え〜〜〜っ!!!

正直、「たいしたことないやん!」この広ーい地球の円周が、 「たったの」400億mm??? 当初「兆」の単位には達するだろう などと予想をしていたのだが、 これでは1兆の25分の1にすぎないではないか。本当にそうなの? 何度も検算したが、本当にそうだった・・・地球って、存外小さいもんだったのね。


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話をもとに戻すが、 そもそも知りたかったのは「1mmの『辺』を繋げ、地面に密着させて地球をぐるっと1周 囲んだとして、 その際 作成される『正多角形』は何角形になるか」ということ。 その結果によって くだんのコーレンさんが導いた 「正461京〜〜形」がどんなものかを想像したかったわけだが・・・ 周囲1ミリ刻みで作られたその図形はせいぜい「正400億角形」にしかならず、はるかに遠く遠く及ばない。 さらなる計算によると 仮に「正400京角形」にするためには 「『1億分の1』mmの辺」で囲まないと、ということが判明したが、これって いったいなんやねん? こんな常軌を逸した果てしない数の図形を想定する意味など、まったく無いでしょ。

これ以上の思考は 脳が沸騰してメルトダウンしてしまいそうだし 実際 頭痛もしてきたので、また後日。


 



2017/3月/23日

春は五感で

ちょうど昨年の今日、年明けて3ヶ月の時の経過の早さには驚愕 という旨の記述をしたが、 それから再び1年過ぎてしまったーーーというのが またもや信じられない。

なかなかあったかくならないなーと思いながら彼岸を迎えたが、 先週 近くの嵐電(京福嵐山線)の踏切に差し掛かったとき、 これまで冬季は乗客が少なく1両編成だった電車が、2両編成になっていたのを目にした。 それを見て 「オフシーズンが終わり、漸く行楽シーズンがやってきたのだ」と気付いた・・・ 気候天候は いまだ足踏みしているように思えても 暦は確実に進み、 また今年も春が巡り来る。

この電車の編成の違い などのように、 普段は意識していない日常の暮らしの ちょっとした変化で ふっ と季節の移ろいを感じる瞬間がある。 今月初旬、近所の道を歩いていると どこからともなく微かに芳しい香りが漂ってきて 「早春の匂い!」とハッとなったが、帰宅して調べたら その香りの正体は 沈丁花である と知った。

冬の時分は 寒々とした冷気を避けて影を潜めていた猫たちが、 大きな声で鳴きながら 民家の周りを徘徊するようになった。 太陽の高度も上がり 夕刻6時を過ぎても まだ薄明かりが残っているし、 晴れた昼間は 陽射しの温もりを仄かに感じる日も増えた。 スーパーの店頭に並んだ新玉葱を買って調理し、とろける甘さを舌で味わう。


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季節の移り変わりというのは、このように五感すべてで感じられるものなのだろう。 春本番の象徴は「桜」だと広く認識されているが、実は その随分前から「小さな春」は、 さまざまな兆しを通して姿をあらわしている。

この連休明けは気温が低く雨模様であったが、 そんな中でも東京では ソメイヨシノの標本木が開花したようだ。 こうした便りを聞くと つくづく思う。 春は足音をたてず いつの間にか密かに すぐ隣にまで忍び寄っているのだ、と。


 



2017/1月/19日

雪や こんこ

年が改まって半月ほど過ぎたこの間の週末は、 全国的な大寒波で京都中心部でも たいそう雪が降った。

日曜の朝 起きて窓を開け、あまりの積雪に仰天し 炬燵の暖かさを最強にしてネコの如く丸くなっていると、 外では子供の歓声が聞こえる。 近所の子たちが雪だるまを作って遊んでいるのだ。 まだ霏霏として雪は降り続いているのに こんな気候天候の中、 よくも楽しげに戯れることが出来るもんだ・・・などと呆れ 感心してはみたものの  人生の来し方を よ〜く振り返ってみると、自分だって ずーっと昔は おんなじことやってたんじゃない?

数十年前 幼き少女だったころ、わたしだって同様に 雪が積もると大喜びで外に飛び出し、 はしゃいでいたものである。 「寒くて鬱陶しいな〜」なんてことは微塵も考えなかった、頭の片隅にも浮かばなかった。 「子供は風の子」それを身をもって体現していた。 それがもう、この年齢に達すると あの思い出は「嘘か夢かマボロシか」と感じられるほどに乖離してしまっている。 いつの時点から、どのタイミングで そのように移行してしまったのかさえ もはや思い出せない。

今じゃ、ただひたすら暖房から離れたくない、外へ出たくない。 まして雪遊びなんて酔狂なマネ、とても出来るはずはない。 はるか昔、元気いっぱい闊達だった幼女の自分は かつての幻像であり、 情けないが片鱗さえも もうどこにも存在していないのだ。


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記憶をたどれば 高校時代までは 真冬の体育の服装も半パンだったし、 セーラー服の上はセーターも着用せず オーバーコートだけを羽織り、 20分近くかけて自転車で風切って通学していた。 冷たい木枯らしなど何のその。それが普通で平気だった・・・今となっては到底信じられないが、厳然たる事実である。

当時の気概とエネルギーが今も体の片隅のどこかに少しでも残っていればーーと空しい願望を抱きつつ 過去の溌剌少女だったこの身は、 今回のような雪の舞う極寒の日は 炬燵布団を被ってネコと化す。


 



2016/12月/15日

思い出の建てもの forever

昨年の11月に「柿の木の家」という表題で、東京の某所にある民家の話を書いたが、その続き。

実は先月11月、所用で久々に上京した際、その家がどうなっているか 思い切って確かめに行くことにした。 ずっと記憶の中にだけ残しておきたくて「敢えて確かめに行く気にはなれず」とは書いたものの あの記述をして以来、 潜在的に気になっていたので その懸念に決着をつけるため、と言ってもいい。 たとえ消滅していても受け容れなければ、 という覚悟を持って ドキドキハラハラしながら 目的の私鉄の駅に向かい改札を出た。 果たして・・・

その家は、あった。 ひと昔近く前、最後に目にした そのときのまま同じ姿で、何ひとつ変わらない佇まいで建っていた。

一挙に力が抜け、そして ほっ とした・・・折しも今回も晩秋、柿の季節。 庭には やはり昔の如く、たわわに朱色の柿が実っていた。 何もかもが かつてのまま、相変わらず この家が纏う空気は 昭和の一時代のまま、ずっと止まっていたのだ。 それにしても、建物というものは 通電したり水を使ったり、 つまり人が住み続けていないと劣化し寂れてしまうと言われるが、 この家屋にはそのような様相は微塵も呈していない。 古いなりにも依然として 今にもサザエさん一家が ひょいと中から顔を出しそうな、 そんな活き活きとしたオーラに包まれている。 かと言って敷地内に人の気配は見えない。 だから普段は生活していなくても、時々誰かがメンテしに来ているのかもしれない。 本当に謎多き孤高の家・・・とにかく今回「無事な」姿を現在も目にすることができ、 結果的に思い切って再訪して正解だったが、 もし「消滅」していたとしたら わたしはどんな心持ちで 東京から戻ってきたことであろうか。


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当たり前のように そこにあるはずの、あるべき建てものーーーそれがもう存在しない、という経験は .これまでの人生で何度かあった。 たとえば、今では面影も無く新しく建てかえられてしまった母校の旧校舎。 これは既に「無に帰した」ことを 明らかに確認しているが、火事で焼失したらしい趣のあった某老舗喫茶店は、 ニュースでその事実を知っただけで 実際に見に行く勇気が持てない。

それ以外でも自分が情報を得ていないだけで、もしかしたら 幼いころ、 若いころに慣れ親しんだ大切な思い出の建物の幾つかは、既に消えてしまっているのかも。 そう考えるだけで 淋しくて せつないことだが。


 



2016/11月/23日

晩秋の憂鬱

先週、とある大型食品スーパーに行ったらクリスマスソングが華やかに流れていた。 でもクリスマスまでは、まだ1ヶ月あるやん。 正直、せめて11月一杯くらいまでは紅葉を しっとりと楽しみたい。 なんで今からクリスマス気分を煽りたてるのか と、毎年この時季になると訝しくてしかたない。 いったいいつの頃から 斯様な風潮になってしまったんだろう、季節感を味わう暇もない。

ところで今秋は、野菜が高い。 夏場到来した台風などのせいで天候が不順で、 野菜全般の収穫が不調で品薄になってしまっているのが原因、と聞く。 どこのスーパーを見て回っても例外無く高い。普段の3倍!などという野菜もあり、ちょっと手が出ない。 安い庶民的な価格が売りのスーパーでは、 高値で出しても殆ど買う人もいないのだろう、売場に置かれてさえいないものもある。 でも摂取しないわけにはいかないので、なんとか極力安めの種類を探すのに一苦労。 結局は大抵、不本意ながら生野菜よりも幾分割安な冷凍野菜等を選ぶことが多い。


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かくの如く、ただでさえ野菜の高騰で溜息をつきながら売場を巡っているのに、 まだ耳にしたくないクリスマスの曲が耳に入ってきて一層気が滅入る。 例年、歳末になると野菜が値上がりするものだが、 今年は現状維持で価格が落ち着かぬまま 年の瀬を迎えることになるのかしら。


 



2016/9月/24日

日本語バリエーション

夏目漱石没後100年 ということで、当時 新聞に掲載されていた小説が 今年になって再び同じ新聞紙面に登場している。 現在連載中なのは「吾輩は猫である」。 この作品は海外の多くの国で読まれていると聞き、 どの言語に訳されているのか興味を覚えて調べてみたところ、 のっけから・・・タイトルの翻訳を目にして愕然とした。

まず英語。「I am a Cat」・・・そのまんま。 考えてみりゃ当然 予想通りなのであるが、あまりに当たり前すぎ、情緒皆無、 もとの日本語が醸し出す重厚な印象が感じられない。 そもそも一人称が複数存在する というのは日本語独自の特徴で、 他の言語では 大抵ひとつしか用意されていない。 発言の主が男女どちらなのか という判断も曖昧 という場合が多いし、 方言による使い分けも出来ない。 だから「ボクは猫よ」であろうが「あたし猫なの」であろうが「ワテ猫やけん」であろうが、 概ねこの一種類のフレーズで片付けられてしまう。 因みにフランス語では「Je suis un chat」、 ドイツ語スペイン語など 他の言語でも状況は同じ。 中国語が最もわかりやすいだろうか、 「我是猫」・・・みな直截的・即物的で、何と言うか 面白味が全然無い(他国の方がた ごめんなさい)。 わたしたちの使い慣れている日本語とは全く質を異にしている。

この事実を鑑みると、普段自分が何の不思議も無く喋り、書き、耳にしている「日本語」とは、 かくも多様で趣深く柔軟性に富む言語なのであるか を 改めて知らしめられる。 その場面・状況に応じて 何種類もの表現法を使い分けることが可能な言葉に囲まれている日本人は、 世界でも希有なほど文化的な環境に恵まれているのだな〜、と強く思う。


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それゆえに、日本語は難しい。 平仮名カタカナ漢字 で文章が構成される、 単数複数を特に明らかにしなくても文章が通じる・・・等々、他の国から見れば特異な言葉かもしれない。 だからこそ それを苦もなく生涯に亘り駆使できている日本人は、 この麗しい言語を乱暴に扱うことは御法度 と痛感している。


 



2016/8月/22日

髪の重さ

今回のオリンピックで女子選手たちの競技を見ていて 改めて ふっ と気づいたことがある。

ロングヘアの選手は結構多いが、その長い髪が僅かながらも 記録に影響しているのではないだろうか、と。

そういう皆さんは当然、邪魔にならないようポニーテールなどにして 髪を束ねて試合に臨んでいる。 しかし そうしてはいても走り高跳びなどは、 バーに髪がひっかからないかな などとハラハラしてしまうような場面に出会うことも多かった。 もっとしっかりヘアバンドなどで固定するとか、 否 いっそベリーショートにカットしてしまったほうがいいのでは・・・ そのほうが何の懸念も無く 競技に専念出来るのでは。

高跳び以外の 他の競技でも同じ。 ショートヘアのほうが よほど身軽に競技に専念できるんじゃ・・・ わたしは運動音痴で一切スポーツはしないが、かつて長年ロングヘアであった髪を ばっさりと切り落とした経験があるため、 かなりの確信を持って そう思う。


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物心ついたときから30年余りものあいだ、 ひところは腰に届くほど長かった髪を、ある日 美容院に出向き思い切ってショートにしてもらった。 鋏が入れられて ジャキッ とカットされた瞬間の印象は忘れられない。 思わず小さく呟いた一声は「軽い!!!」という言葉だった。 軽い、かるい、カルイ・・・自分は幼いころから今まで、 こんな重たい「荷物」を頭に ぶらさげて毎日を生きていたのか!! そう、髪というものは間違いなく厳然として「重い」のだ。 そのとき それを、心底思い知った。 これはもう、生涯をショートヘアでしか過ごしていないひとには 決してわからないであろう 衝撃的な感覚・・・ 逆に わたしも ずーっと長いままであったなら、 その重さを実感として認識することは 絶対 一生 出来なかったに違いない。

そうした体験から、どんなスポーツであれ 髪の長さが記録に全く影響を及ぼさないはずはない、 と考えるのが わたしの持論である。 走りの競技であれば 向かい風の場合など抵抗が大きいように思えるし、 水泳でもキャップを被っているとは言え やはり水の抵抗が増すような気がずる。

もちろんロングヘア女性の中にもメダリストが多いのも確かではあるが、 彼女たちも含め 今後その長い髪をばっさりカットする機会が もし訪れた際ーーー きっとその時点までの自分が いかに重い「荷物」を頭部に抱えていたかに 初めて気がつくかもしれない。 そのとき過去の行動を後悔するひとも居るかも・・・ 「あのとき あの試合、もし短い髪で出場していれば、 ずっと身軽に感じられて ひょっとしたら もっといい成績を残せていたかもしれない」と。

だから 少しでも良い結果を出したければ、出来ればショートカットで臨んだほうがいいのでは と、 強く思っている(僭越ながら)。 現在の自分は もうこの短い髪型に慣れきってしまい、 再びあの「荷物」を頭に括りつける気にはなれない。 たかが髪、されど髪。ことほど左様に 思いのほか 重いもの、であるから。


 



2016/7月/19日

四季の危機

昨日 梅雨明けが発表され、夏本番が到来。半月余り前 クマゼミの初鳴きを聞いたー と思っていたら、 今や朝方は近所の木々で喧しくシャーシャーシャー・・・の大合唱。おちおち寝てもいられないくらいの音量である。

子供時代、セミと言えばアブラゼミだった。 ジ〜ジリジリ〜と あちらこちらから聞こえてくる鳴き声が 真夏の風物詩だった。 しかしここ数十年の間にクマゼミが徐々に台頭し席巻し、アブラゼミにとってかわってしまった (少なくとも わたしの居住している関西圏では)。 それでもたまに ジ〜ジリジリ という声を耳にすることはあるが、そんなときは「珍しいなー」と感じる。 クマゼミは もとは南方系のセミ。 というわけで日本列島は、既に南から段々と 亜熱帯化が始まっているのでは? と懸念している。

そう言えばこの初夏ごろ、衣替えをしている際にハッ と あることに気付いた。 冬服 夏服 と分けて整理している中から出てきた七分袖のブラウスやらトレーナーやら・・・いわゆる「合服」に、 最近 滅多に袖を通していない! 冬の毛糸ものを脱いだあと 何だか気候が一気に上昇してしまった気がして 時を置かずに半袖を着用。 考えてみると ここ数年、 同様のことを繰り返している。


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つまり日本は次第に 夏季と冬季の両極端の気候に 二分されてきているのだろうか。 実際 昨今、「春」「秋」独特の天候気候を あまり感じられない。 温帯・日本の魅力として「四季がはっきりしている」と、 昔から言われてきたが・・・かくの如く亜熱帯の兆候が見られはじめてきたのだとしたら 由々しき事態。 そのうち「立秋・立春」とか「秋深し」とか「春たけなわ」とか、 そんな趣ある季節感豊かな言葉に 国民はピン、と来なくなってしまうかもしれない。


 



2016/6月/4日

星空の奇蹟は突然に

「生きているあいだに 一度でいいから見ておきたい」もの、というのは誰にだってあるに違いない。 わたしにも幾つかあるが、そのうちのひとつを先夜 遂に目撃する幸運に恵まれた。

天文少女だった子供時代から、いつか一度は「火球」を見てみたかった・・・ 大雑把に言えば並外れて明るく輝く大きな流れ星である・・・ 普通の流星を見た経験はこれまでに幾度かあるが、 それらを遥かに凌駕する明るさ大きさの「火球」。 はたして どうすれば目にすることが出来るのだろう。

そもそも予測など まったく不可能、突然現れて消えてゆく。 その瞬間 戸外にて天空を仰ぎ見ている必要があり、 しかも視界が その方向を捉えていなければならない。 そのときを狙って偶然 そのような天体が夜空を横切るなどという確率は、 いかほどのものだろうか。目撃する人は よっぽど運がいいのだろう。

そう考えて 諦めてさえいたわけである。 なのに前触れもなく 一昨日の夜更けに突如 夜空に出現したその「不意の来訪者」は、 わたしの視界に見事に飛び込んできて、北北東から南南西の方向へと ゆっくり流れ去った。 普通の流れ星は一瞬で消えてしまうものだが、その著しく輝度の高い光の筋は、 5秒以上もかけて 頭上を翔け抜けていった(ように感じられた)。

調べてみたところ、それは「低速長経路流星」という まどろっこしい名称で呼ばれるようである。 よく「願いごとを唱えればよい」とか言われるが、これだけ 時間をかけてゆっくりと流れ去ったとしても、 願いごとなど何処かに吹っ飛んでしまう。 ただ唖然呆然・・・言葉も無く、声も出ず、目を皿のように見開いて行方を追うのに精一杯。 これが「火球」というものなのか、という認識が徐々に頭に芽生え 我に返ったのは、 視界から消失して数秒後のことだった。


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夜空を見上げ、僅かのあいだ視線がピンポイントで そこに向けられていなければ見ることの出来ない その天体。 幼き日から いつか目にする日を切に願っていたが、 その運命の瞬間は 予期せぬときに ほんとうに唐突にやって来た。 2016年6月2日 22時直前に起きた、奇蹟。



 



2016/5月/5日

童謡の歌詞に動揺

端午の節句に因んだ童謡は幾つかあるが、 「せいくらべ」は 昔から解釈のしかたに悩む歌である。 一昨年 兄さんに測ってもらった背丈の柱の傷が、今年はやっと「羽織の紐」の丈、という部分。 わたしはずっと、一昨年の自分の背丈は今の自分の「羽織の紐」の位置 の高さにすぎなかった、 と認識していた。 つまり2年前より今は随分伸びたなぁ、と感心している歌詞なのだと思っているが、 どうも異なる解釈がある らしい。 いろいろ調べてみると、この2年間で「羽織の紐の長さ」程度・・・ つまりせいぜい10cmくらいしか伸びていなかったのか、 と少々 落胆している歌詞であるという説もある。 つまりその2つは 正反対の解釈となる。 しかし作詞者は90年以上も前に夭折してしまったため、もはや真意を確認する術はない。

かつて子供心にも素朴な疑問を感じた童謡は、ほかにもある。 たとえば「やぎさんゆうびん」。 シロヤギさんから届いた手紙を読みもせずクロヤギさん が食べてしまい、 はたと我に返って手紙の内容を確かめるべく先方に手紙を書く。 しかしそれを今度はシロヤギが食べてしまってーーー とまあ こんなやりとりが続くことが予想される歌であるが、 そもそも一番先に用事があって手紙を出したほうが気付くべきであろう。 不毛な手紙の往復を延々繰り返す つもりかしらん。

それから「待ちぼうけ」。 木の根っこにぶつかって転ぶなどとは、相当ドジなウサギである。 そんなウサギが そうそう同じ野っぱらに複数 棲息しているとは考えにくいが、 この歌詞の主人公は 連日「2匹目のドジョウ」ならぬ「2羽目のウサギ」をひたすら待って時間を潰している。 これもまた不毛な歌ではないか、と思っていたら どうやらこれは本当に 中国の思想書「韓非子」内の説話を歌詞としているそうで (「守株」という成句の元となっているらしい)立派に教訓の歌であるみたい。奥が深い。


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多分わたしは同年代の人々と比べると、かなり多くの童謡を知っている と思っている。 ずいぶんマイナーな曲まで憶えているし。きっとこれは幼少の みぎり、 我が家には童謡を納めたSPレコード(←わかります?)が何故か大量にあり、 母が毎日何度も聴かせてくれたためであろう。 おかげで今でも ソラでフルコーラス口ずさめる歌は たくさんある。 耳からの情操教育を工夫してくれた母に 現在では感謝している。



 



2016/3月/23日

地球の見る夢

年初 「ジャネーの法則」という表題で書いたが、今回も時間に関する話である。

一月去(い)ぬ、二月逃げる、三月去る・・・と言われる。 まさにその通り、年明けてからの3ヶ月は 何故だか実に あっけなく、どんどんと日々が過ぎ去る。 あ〜新しい年になったんだな〜と思っているうち、 もう春のお彼岸・桜の季節が巡ってきてしまったのだから、呆れる ほどに夢のように時が流れる。

夢のように・・・と記したが、実際 夢を見ているとき、時の経過に関しては無感覚である。 不思議にも どのような時間の流れ方をしたとしても、不自然さは感じられない。

夏目漱石「夢十夜」の一夜目を読むと、そのことを はっきり認識できる。 明治時代末に著された この短いオムニバスには 他に少々 生々しかったり不気味だったりするものもあるが、 この最初の話には 実に幻想的な空気が漂っている。

身罷った女性を埋葬し、彼女が最期に遺した「墓の傍で100年待っていてくれたら、また逢いに来る」 という言葉を信じて その通り、ずっと何日も何日も、墓石の脇で待っていた。 だがなかなか年月は過ぎそうになく、女性に騙されたのではないかと訝り始めるが・・・ そのうち茎が 自分のほうに伸びてきて白い百合の花を咲かせ、そこで「100年目が来たのだな」と悟った。

ざっとこんなあらすじであるが、 かくの如く夢の中では 100年の経過が すんなりと成されてしまっても、何の不思議も感じない。


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改めて考えてみたのだが、もし「地球」が意識を持っていて 仮に夢を見るとすると、こんなものなのかも。 46億年近くの年齢だと言われ 今後いつまで存命するかはわからないが、 そんな彼(彼女?)にしてみれば、100年の歳月などほんの一瞬、 「短い夢に費やして終わるくらいの刹那」にすぎないに違いない。

具体的に思い出すこともできないが、 わたしもこれまで、現実世界ではあり得ない長い時の流れを 無理なく一気に体験、 という夢を幾度も見た。もしかするとそんなときには、 地球が持っている時間経過の感覚を 疑似体験しているのかもしれない。



 



2016/3月/3日

旧暦復活希望

一昨日、弥生初日の朝は雪であった。依然として冬の寒さが尾を引いている。 そして本日は「桃の節句」である。

しかし桃の花なんて、どこにも咲いてはいない (そもそも桜とは異なり、桃の木自体あまり見かけるものではないが)。 当然の如く桃の花が盛りなのは、ざっと一月ほど後の時季、旧暦の3月3日。 今の暦では到底 3月初旬の開花は望めない。

七夕も然り、である。現在の7月7日は梅雨の真っ最中。 雨が降らない日であることのほうが難しいくらい。 なのに国内ほとんどの地域で、新暦7月7日に笹に短冊を飾って掲げている・・・ その点 仙台などは ちゃんと旧暦で8月にお祭りをしているから、 晴れ渡った真夏の夜空に 美しく織女牽牛の星々が映える。

つまりこれらのイベントは、 昔ながらの旧暦で行うからこそ本来の趣が感じられるのだと思う。 なのに何ゆえ新暦に従うことに なってしまっているのだろうか。


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今からでも、どこからか徐々に声が挙がって桃の節句やら七夕やら、 旧暦に戻す動きが始まらないだろうか、と 切に密かに願う。今日など こうしてPCのキーボードを叩いていても、 まだまだ指先がかじかむほど。 雛祭りは桃の花満開の、麗らかな春本番の日に祝いたいものである。


 



2016/2月/12日

ダイヤル式

京都市内で世界遺産に指定されている某神社の傍に、 むかーしから続く和菓子店がある。 いかにも老舗、といった年季の入った佇まい。先日久々に訪れ、 お菓子を包んでもらっているあいだに 注意深く店内を観察すると、 なんと奥の壁際に「黒電話」が置かれているではありませんか。 ダイヤル式の・・・ 今の若者たちは見たこともない、という人のほうが圧倒的に多いかもしれないが、 わたしの子供時代は どの家の中にも このタイプの電話が置かれていた。 だから懐かしくってしかたない。レトロでアナログ。 こんなところで「昭和の遺物」を発見出来るとは、ラッキーである。

暫く前、TVで女子高生たちにこの黒電話を見せ、 「かけてみて」と試す実験(?)をしていた。 目にするのも初めてなのだから、当然使った経験などあるはずがない。 そもそも「電話機にダイヤル」という仕様が理解できないようで、 どう扱っていいものやら、皆さん相当難渋していた。 ダイヤルの穴に指を入れるまでは何とか出来ても、 それを「回す」という発想が浮かばないようで、 一生懸命ただ指を押さえるだけで「かけられない、わからない」と ひどく困っていた。 う〜ん、黒電話は 今やそういう難物。よもや そんな時代が到来しようとは。

ダイヤル式電話は、右上の「1」から順に反時計回りに番号が配置され、 最後は ほぼ真下の「0」で終わる。 「1」を回したとき一番近い位置に指止めが取り付けられているから、 その「1」を回すのに費やす時間が最短であり、 「0」を回す時間が最長、ということになる(あ〜説明がまどろっこしい)。 さて警察が「110番」、消防署・救急車は「119番」。 この2つの番号決定についての経緯を、かつて聞いたことがある。 これらを呼ぶ緊急事態が生じた場合、誰しも一刻も早く電話が繋がってほしいはず。 少しでも時間の短縮を望むのだから、 本来「111」とか「112」といった番号の方が早くダイヤルを回せるので そのほうがいいのではないか、何故そうした番号に設定しなかったのだろう。


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こういう場面では、大抵は皆 気が動転して慌てているはず。 極力早く通報したいとは思っても、そこを何とか冷静さを保つ、 ということも重要である。 そこで「1.1」と番号を回した後 気を落ち着かせるため、 わざと時間のかかる「9」と「0」を最後の3桁目として設定した、 ということらしい。 なるほど、と納得のいく話である・・・しかしあくまでこれは「ダイヤル式」であるからこそ有効。 やがてそれが廃れてプッシュボタン式がメジャーになってくると、 「取り乱した心を鎮める時間を確保する」目的で設定された緊急番号は、 最早意味を成さなくなってしまった・・・それでも番号だけは依然として残ったまま。 面白いような切ないような。

くだんの和菓子屋さんの黒電話は、 れっきとした現役である。壊れたりしたら もう替わりの同じ物は入手できないだろうが、 とにかく「使えるうちは最後まで使う」ーーーその気概が潔くて頼もしい。 いろいろと不便な面もあるだろうが、 可能な限り店の奥に、いつまでも鎮座していてほしい。


 



2016/1月/7日

ジャネーの法則

あらら、という間に年が改まってしまった。 この年末に年賀状を書きながら 「あれ?つい『数ヶ月』くらい前に年賀状書いたばっかりのような気がする」・・・と、 しきりに感じていた。 同じ作業を行っていたのは前年末のことであるが、それから一年過ぎたなんて到底思えない。 歳を重ねるにつれ  どんどん、ますます、一層、坂道を転げ落ちるかの如く時間の経過が早くなっていく。

一世紀以上も前にフランスの哲学者ジャネーさんがこのことに気づき 「20〜80歳までの年月は、生まれたときから20歳になるまでと同じ長さのように感じる」と提唱したそうである。 つまり、成人を迎えた 時点で既に半分人生を終えている(と体感する)・・・。

そう、今思い起こしても不思議なのは、小学生低学年のころの時間の経ちかた。 下校して一旦ランドセルを家に置き、友人宅に出掛ける。 思いっきり遊び、夕方5時になるとサヨナラを告げて帰宅する・・・ 毎回「今日もたっぷり楽しく遊んだなー」と満足して帰路についたものである。 しかしよく考えると、その遊び時間は ものの2〜3時間しか無かったはず。 大人になった現在では、決して2〜3時間では たいした作業はできやしない。 しかし子供のころの自分は、何の困難もなく そんな調子で連日過ごしていたのである。

子供というのは 新しい発見や経験が毎日満載であるために 時間の密度が濃厚なのだろう。 大人になると そんな新鮮味が生活から失われ 単調で変化の乏しい毎日を送ることとなる。 そうなると時間の密度が疎となり、あっ という間に年月が経過していってしまう。


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幾つになっても少年少女期のように常に新たなることに取り組んで生きるよう努めれば、 少しでも時間経過の体感スピードは緩和されるそうである。 それを聞いてから何年にもなるが、今回も またもや本格的に実践されぬまま、 年を越してしまった・・・(泣)。


 



2015/12月/16日

たきび

実家に植えられた楓の落葉が夥しく、庭に散らばっているのを掻き集めて片付けるのに一苦労だった。 回収した落ち葉は大きなゴミ袋一杯になったが、 最近では自宅庭での焼却処分は難しく、 普通ゴミとして廃棄するしかないようである。

わたしが うんと子どもの頃は 今ごろの時節、その同じ庭で 父が枯れ葉を燃やしていたし、 近所の空き地などでも 時折焚き火を見かけたりした。かなり煙もうもうであったが、 別段近隣から何か文句を言われた憶えもなし。まぁお互いさま ということで特に問題はなかっ た。

ところが現在では住宅地での焚き火は御法度、というのが不文律になっているようである。 洗濯物に煤がついたり煙たくなったりする、火の粉が飛んでくるかもしれず危険・・・等、 様々な苦情が寄せられると聞く。 この住まいのごく近くにある保育園も毎年 焼き芋パーティを催しているが、 そのたび事前に「ご迷惑おかけします。当日は消防署にも通知し、 じゅうぶん注意しますので何卒ご理解を」という旨の紙片が 近隣諸家に配られる。 このように気を遣わなけれ ば、サツマイモひとつ焼くのも 気軽に楽しめないご時世となった。


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童謡「たきび」は昭和16年に発表されたものらしいが、 その時代は民家の建ち並ぶ巷での焚き火でさえ、 ごく平凡な冬の日常の風物詩だったのだろう。 秋の 樹々の色付きが終わり、その落ちた枯れ葉を集めて火を焚く、 通りすがりの子どもたちが足を止めて暖まってゆく・・・ 何とも情緒を感じられて いいわね〜と 思うのだけれど・・・ 平成の今、少なくとも街中では もはや目にすることの出来ない光景。 昭和は遠くなりにけり。


 



2015/11月/11日

柿の木の家

柿の美味しい季節が到来すると思い出す一軒の家がある。 初めてそれを発見したのは もう20年近くも前のこと。 場所は東京・渋谷から伸びる私鉄の とある駅のすぐ近く。 この界隈はオシャレなお店が建ち並んで若者で賑わっているのだが、 当時その合間には昔ながらの家々が いまだに点在し、昭和時代の情緒が厳然として残っていた。 そんな不思議な雰囲気が醸しだされる一角にその家はあった。

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そのスポットだけ時が止まったような、 半世紀も前にタイムスリップしたかのような空間である。 いかにも「サザエさん」一家が住まっていそうな、これぞまさしく古き東京の民家、 といった何とも趣のある佇まいに強く惹かれた。 そして庭には、柿の木が・・・季節はちょうど晩秋であり、 たわたに朱色の実がなっていた。 その一本の木により ひなびたレトロ風情がますます引き立てられてしばし見とれてしまった。

以来 上京するたびに その家に「会いに」渋谷から私鉄に乗った。 時季は必ずしも柿が実るころではなかったが、その木が庭に植えられている、 というだけで昔ながらの落ち着いた上品さを視界一杯で感じられ、 静謐なひとときを過ごすことができた。

最後に訪れたのは10年くらい前だろうか。 次第に もうあまり上京する用事も無くなり、 その柿の木が植わったお気に入りのあの家が現在どうなっているのか、わからない。 けっこうな年月が経過しているので、 残念ながら最早 建ってはいないのではないか という可能性のほうが高いかも・・・ むろんまだ現存していてくれたら・・・と願う。 だが一昨年だったか 久々の上京の際、敢えて確かめに行く気にはなれず、 訪れることなく帰ってきてしまった。 今では専ら かつて写真に残した姿を眺めて 思いを馳せている。


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柿の木。昭和の空気を漂わせる良質なアイテム。 それが一本でも庭に存在していれば、懐古的情趣が かくも増すものかーーと、 しみじみ感じ入っている。


 





2015/10月/18日

ラッキーマウス

秋深し。古い木造町家なので、夜寝ていると 頭の上で カタカタ、コトコトと細かい足音が響く。 屋根裏でネズミたちが 元気に走り回る時節である。

先日 実家の本棚から 昔のコレクション「サザエさん」の単行本が出てきた。 読み進めるうち、思いのほか ネズミが題材になっているものが多いのに気付く。 つまり昔の日本では 一般庶民の家庭に、ごく普通に ネズミが お住まいになっていた ということである。 昭和の時代、とりたてて珍しくもなかったのだろう。

あのウォルト・ディズニーが若い頃、 貧しいがため仕事場で寝泊まりしていたことがあったと聞く。 そこではネズミたちが出没し、特に懐いてきた一匹を モーティマーと名付けて可愛がったそうである。 やがてそれが のちのミッキーマウスのモデルとなった、とか・・・。 衛生的には どうかとは思うが それは置いといて、 ディズニーが そんな生活を送らなければ・・・その人懐っこいネズミに出会わなかったわけで、 ミッキーというキャラクターが誕生することもなかったはず。 不本意にも 仕事場での生活を強いられたおかげで、そこに現れたネズミが大成功をもたらしてくれた。 彼にとっては まさに救世主 ということに。人生とは不思議なものである。


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ところで昨年、わたしも家の中で 至近距離で じっくりと一匹のネズミを観察する機会があった。 お目々くりくりの 愛らしい顔をしているので、 害獣とはわかっていても あまり積極的に駆除しようという気が起こらない・・・ そのまま見逃したが、ディズニーのように そのネズミが わたしにも幸福を運んできてくれないかなー。


 



2015/9月/13日

苦手な引き算

タイトルの通り・・・じつは わたしは 引き算が苦手である。

苦手、というだけで 出来ないわけでは勿論ない。 正確に言うと、いわゆる「繰 り下がり」の引き算に時間がかかるのである。 たとえば 「3015−876=?」といった計算がもたついてしまう、 即座には出来ない。 最初に一の位を見、5から6は引けないから おとなりの十の位から借り・・・ などという手順が恥ずかしながら にわかにはピンと来ない。

小学校低学年のうちに当然 習うはずのこの計算、 しかし信じられないことに その方法をマスターせず曖昧なまま、 わたしは中学時代を過ごした。 否、もしかしたら そのまま高校時代にさえ突入してしまったかも・・・ そう、わたしは、ずぅうっと「数学」の授業を 、 この手の計算に まごつきつつ 受けていたのである。 その計算をする必要が生じた際は、とにかく適当に答を見つくろい、 改めて足し算にて検算し、運良く合っていればそのまま、間違ってい れば考え直 し・・・ 今考えるとそんなまどろっこしいこと繰り返していたのかな・・・ いつかは何とか解けるのではあるが、時間がかかる。 それを数学の成績が悪かった、という言いわけにするつもりは毛頭ないが、 とにかく他の生徒と比べて ずいぶん時間を損していたことは、確か。


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さてそもそも、なにゆえ こうした事態を招いてしまったのか。 大人になってから冷静になって原因を検証すると、 恐らく小学校で まさにその繰り下がり引き算を習うとき、 学校を休んでいたのではないか という結論に達した。 わたしは滅多にお休みしない子どもであったが、 とにかくその授業を受けた記憶が一切無いのだから そういう事情によるもの、 と考えるのが妥当だろう。 たぶん珍しく風邪でもひいて数日間休校したことがあったのかもしれない。 結果、そこだけみごとに「落ちこぼれて」しまい、 誰かに教わろうという努力も怠り、 放置したまま 学年を重ねてしまったのだ と推察する。 当たりまえだが全ては自己責任。

遅ればせながら長じてその計算法を改めて復習したあとも、 依然としてやはり苦手である。 「何故おとなりの位から借りるのか」 「引かれる側の位の数字がゼロの場合は『9』として考えて引くのは何故?」などと、 大きくなってからでは頭の中で理屈が先行してしまう・・・ 小学校低学年の頃であれば、そんな理屈は抜きで素直に教えられるがままに習得できるのだろう。 したがって この年齢に達しているにもかかわらず、 その都度 難渋することに変わりはない。 幼い時分の学習のつまづき。 かくの如く長年経っても影響を及ぼし、尾を引いていることに われながら驚愕!している。


 



2015/8月/19日

深夜します遺族間

昨年大晦日に デパート屋上遊園地について記したが、デパートに限らず巷の昔ながらの遊園地の類も、 すっかり廃れて殆どが姿を消してしまった。 わたしが幼女時代に親しんだ場所のトップは、過日も記したが断然 阪神パーク。 そして宝塚ファミリーランドが続く。

以上2箇所は既に姿を消している。 現在、国内で 昭和・あるいは それよりもっと遡った時代から続く遊園地は、 もう数えるほどしか残っていない・・・東は浅草花やしき、西は ひらかたパーク・・・など。 神戸に須磨山上遊園というのもあるが、わたしは一度も訪れたことがない。 今さらながら なるべく早いうちに訪れねば、と画策している。

近畿圏以外でも同様の場所がないか と検索していたら、 遊園地というわけではないが、 香川・高松に昭和44年オープンの新屋島水族館なる場所があるのを知った (当初は「屋島水族館」だったとのこと)。 しかし残念、どうやら今年中にも閉鎖されるそうで、 この近くの人びとにとっては、たいへん惜しまれつつの閉園となることだろう・・・ またひとつ、周辺の子供たちに親しまれている 古くからの遊び場が消えてしまう。

ところでこの「新屋島水族館」を出そうと「しんやしますいぞくかん」と打ってあらわれたのが、冒頭のタイトルである。 字列を見ただけでは「何のこっちゃ???」・・・このPCでエディットしていると、 しばしば あまりにも意表をつく変換が出てきて面喰らう。 最早 脱帽ものである。唐突に画面上に表示された途端、キーボードを叩く指が硬直してしまう。


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およそ想像もつかない 変換を あっさり やってのける、その斬新なセンス! おそれいりますわ。


 



2015/8月/5日

謎の熱病

昨夏の後半は、デング熱の話題でもちきりであった。 その一連の報道を連日 耳にしているうち、 不意に遥か昔の ひと夏の闘病生活を思い出した。 普段は忘却の彼方へと追いやられているが、あのときの苦しさといったら、 一旦記憶の表面に現れると、鮮烈な難行苦行体験として よみがえる。

20歳を迎える年の7月下旬、通う大学は夏期休暇最中。 ある日突然 夥しい悪寒を感じ、倒れた。 それが、その夏休みの残り ほぼ全て床に臥すという 悪夢の日々の始まりだった。

熱は一気に40度を超えた。 その時のわたしの寝床があったのは、冷房無しの部屋。 気温36度にもなる環境であったが、寒くて寒くて仕方がなかっ た。 熱が僅かでも上がるたび、身体が凍えるようで ガタガタと震えが止まらなかった。 真夏でありながら毛布を5枚も6枚も被ったが、悪寒は一向に治まらない。 そんな状況が3日も続いただろうか。

これは さすがに尋常ではない病状だ と親も心配し、 重症のわたしを引き摺るようにして近所の医院まで連れて行った・・・ しかしその医師は わたしの喉をちょっと診ただけで あっさりと「夏風邪」と診断を下した。 そのとき本人は意識が朦朧とし、自ら言葉さえ発せられない状況。 「そんなはずない、ただの夏風邪なんかでありっこな い!」と頭の中では悲鳴をあげていたが、 意思表示は不可能。 そのまま何も言えず帰途につくしかなかった(薬を処方されたかどうか、もはや憶えては いない)。

そののち数日後、少しは熱がひいた(それでも38度くらいはあったかな)時分に、 電車に乗って大きな病院を訪れたのだが 「病状が最も重いときに診てみないと わからない」と言われてしまった。 それはそうなんでしょうけど、一番シンドイときに長距離を動いて来院できるわけはなく・・・ 結局 本当に「確かなことは わかりません」で終わってしまった。 それでも血液検査はしてもらったが、唯一「血沈値が べらぼうに高い」などと言われた記憶がある (それ以外にも異常があったかもしれないけど、一切忘れた)。

とまぁ、2度の通院に関して 骨折り損のくたびれもうけ、という印象だけが残っている。 そしてその2度目の通院から帰って間もなく再び熱が上がり、またもや40度超え。 再度 毛布5〜6枚を被りつつ 蒸し風呂のような寝床で震えながら身体を横たえる時間が過ぎていった・・・。 その後のことは今となってはあやふや。 たぶん一週間くらいしてから 徐々に熱は下がっていったのであろうが、大事に大事をとり、 夏休み最終日(8月末日)まで 外出を完全に控えて ひたすら床の中で おとなしく静養して過ごした。 そして9月、授業が再開するころには概ね もとの健全な体調を取り戻していた。


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それっきり・・・その熱病は再発もせず、 その後 何度も何度も巡ってくる夏を迎えても 同様の状況に陥ることは全くなく、 今日に至っている。あの ひと夏はなんだったんだろう・・・でもひとつだけ「不幸中の幸い」がある。 それは、当時わたしが学生であり、しかも丁度 夏休みにあたっていた ということ (通学の必要がない期間だったのはラッキーだった)。 数年後にはOLの身分となったが、 もし社会人になってから この災いが降りかかっていたとすれば当然 長期間休職するハメになる。 いくら病気とはいえ一ヶ月以上も仕事を休んでしまえば、恐らく解雇は免れなかったかもしれない。

昨年のデング熱報道の際 「実際は 昔からデング熱は 国内で発生している」とも言われていた。 20歳目前の夏、わたしを襲った禍々しい あの病が そうだった、 と言うつもりは決してない(症状が似ているところもあるが、一致しないところもあるし)が、 結局「原因不明の」熱病であったことは明らかであ る。 ひょっとして、現在おおやけに騒がれてはいない 熱帯由来の なんらかの熱病がその正体だったかも、 という気もしている。 当時も、そして数十年経った今でも謎のまま。 因みに あの時期、少なくともわたしの周辺で同様の病に倒れた人の話は 一切聞くことがなかった。


 



2015/7月/19日

ジョニーの命日

兵庫県西宮市の「甲子園阪神パーク」が惜しまれつつ閉園してから、 いつの間にか もう12年以上になる。

幼少期を西宮市で過ごしたわたしにとっては、まさに遊園地イコール阪神パークと言っても過言ではない。 そして昔の一時代、この遊園地は世界のネ コ科研究者から注目を浴びていたに違いない。 ヒョウの父親とライオンの母親から生まれた「レオポン」が飼育されていたからである。

何を隠そう、わたしは初代レオポンの2頭と同年・同月の生まれである; その翌々年にも3頭生まれた。 そうした親近感のせいか今でも「阪神パーク」 と聞くと、 まっさきに思い出すのが 彼らの記憶。 顔つきや体つきはライオン、しかし全体はヒョウの斑模様で覆われていた。 雄は長ずるにつれライオンほど立派ではないが、ちゃんとタテガミを首廻りに纏った風貌となった。

子供のころ繰返し訪れ、何度も何度もレオポン舎に足を運んだ。 しかし年月経つにつれ自然の摂理で、一頭 また一頭と徐々に去ってゆく。 そしてとう とう一頭きりに・・・かつては他の数カ国でも誕生したようだが、 阪神パークのこの一頭が世界で最後の一個体となった。 わたしは成人してからも2〜3度、この雄レオポンに会いに行っている。 伸ばした両前足を行儀よく揃え、 スフィンクスの如く凛として前を見つめ独りで静かに座っていた姿が脳裏に焼き付いている。 ひとりぼっちになって淋しいね、などと声掛けした憶えがあるが、あの子自身はどういう心境だったのかな。


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そして1985年7月19日。 子供たちで賑わうはずの夏休み目前にして彼は旅立ち、 地球上からレオポンという動物が遂に姿を消した。 人間にすると100歳をゆうに越える大往生だったらしい。

本日は、その最後のレオポン「ジョニー」が没してから、ちょうど30年目の命日です・・・。


 



2015/6月/30日

夏越の祓

この時季となると 境内に茅の輪が設えられ、本日は夏越大祓式が行われる神社も多い。 この行事自体は 日本の各地で行われているようだが、京都には「水無月」なる和菓子を食す習慣がある。

茅の輪くぐりも水無月も、季節を感じる趣ある響きではあるが、 個人的にはこれらの言葉を耳にしてまず思うのは「あー、今年も上半期が終わってしまうんだ」ということである。 そして「明日は吉符入りで、もう今年も祇園祭の到来か・・・」と続く。


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しかし確かつい最近、まったく同じことを心の中で呟いた気がしている。 本当に、つい最近! ってことは、いかに1年が 瞬く間に過ぎてしまったか、ということ。 正確に言えば そう「感じてしまう』年齢に達した、ということか。 昔と比べると まさに矢のように日々が過ぎ去って行き、あっ と言う間に1年が巡ってしまう。 「坂を転げ落ちるように」という表現がすこぶる的を射ている。

これはもう、いいかげん心して 1日1日を生きて行かないと「残り時間」はますます短くなってゆくばかりだわ。 この時節になると その同じ言葉を繰り返しつつ 早や何年が経つだろう。 ましてや年を重ねれば重ねるほど、時間の経過にますます加速度がついてくる。 それは重々わかっているけど、でもまぁ何とかなるんじゃない? そう考えながら今年も水無月を口にする。


 



2015/6月14日

懐メロの定義

銭湯で懐メロを、という表題で 昨年晩秋に一度書いたのだが、 そもそも「懐メロ」とは いつごろの曲のことか、と言えば 当然それは 人それぞれ年代によって異なるはずである。 理由は わからないが、わたしにとっては「1970年代」まで。 つまり1980年以降の曲は もう懐メロとは呼ばない(自分としては)。

そんなことに最近、脱衣所で昔のヒット曲を流している近所の銭湯にてふっと気づいた。 そう考えたのは 「不思議なピーチバイ」(竹内まりや)と「さよなら」(オフコース) が続けて流れていたことがきっかけである。 前者は1980年の春、某化粧品会社のCM ソングとして大ヒットした。 むろん今の若人たちは そのことを知らないだろうから「懐かしさ」さえ感じようがないでしょう (生まれる前に流行った曲なのだから)。 しかしわたしは 改めて久々に この曲を耳にし、 確かに懐かしくはあるんだけれど さほどノスタルジックな気分に浸るものでもない、と感じた。

対して後者「さよなら」のほうは、耳に触れるたび昔を思い出して感傷的な心持ちとなり、 したがって確実に「懐メロ」の範疇に入るのである。 この曲 がミリオンセラーとなった年も 同じ1980年ではあるのだが、 リリースされたのは前年・1979年の暮 というのを何故かハッキリ憶えている。


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というわけで この2曲に対する印象を比較した結果、 わたしにとっての「懐メロ」は1970年代が終了するまでに世に出た曲、 という結論に達したしだいである・・・ そしてその時期は自らが成人した時分と一致している。 かような理由で個人的には 懐メロ の定義とは、 その本人が「未成年」のころに耳に馴染んだ曲なのでは、と思っている。


 



2015/5月/22日

昭和銭湯

手塚治虫氏の少年向け漫画の中では「バンパイヤ」が特に好きである。 「少年サンデー」に連載されていたのは もう半世紀近くも昔のこと (連載時にはテレビでも実写版が放映されていて 水谷豊少年が主人公を演じ、 事実上のデビュー作となったと聞く)、主な舞台は東京。 先日久々にその単行本のページをめくっていると  たぶん練馬あたりの銭湯の洗い場シーンがあり、 入浴客で大盛況の様子が描かれているのに気付いた。 当時の都会の住宅街、これがごく普通の光景だったのである。

さて現時点で、わたしは銭湯通いをしている。 たしかに最初のころは「好きなときに入浴出来ない不便」を懸念していた。 しかし何ヶ月も経つと、その不安は払拭された。 そもそも みずからの生活スタイルのほうを銭湯の営業時間に合わせれば 特に不都合とは感じなくなるわけで、 何より浴室の清掃をせずに済む気楽さは不便さを補ってなお余りある。 お手頃とはちょっと言いにくい料金ではあるが、 連日豊かな量のお湯の提供および場内を清潔に保ってくれる、 そんなお風呂屋さんの大変さを考えるとそれくらいしかたない。 そのかわり嬉しいことに家のガス代は格段に減る(不思議と水道代は、あまり変わらない)。


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わたしがヒトケタの年齢の時分は内風呂の無い家庭はさほど珍しくなかった。 コンビニなど当然 皆無で、スーパーと呼ぶ店舗でさえも滅多に見かけず、 あったとしても大抵は夕方にはもう閉店 (因みに昔、デパートは すべて18時に閉まり、 週に一度の定休日があったし お正月の三が日は完全休業だった)。 銭湯が営業している宵のうちにお風呂に入りに行く→ 当たりまえ。 商店が閉まる夕刻までに買い物に行く→ それもかつては、当たりまえ。 そして夜になったら みんな、寝る! → そんなの、言わずもがな。 それで日本は無事に回っていたし、文句を言う人も居ず ほぼ毎日 概ね平和だった。 翻って現在、「便利」だからと言って その状況が「幸福」に直結するわけでは決してない。

今 わたしが住まっているエリアには まだまだあちこちに銭湯が点在する (このような地域は けっこう恵まれていると言えるだろう)。 定まった銭湯ファンは厳然として存在するが、 それでも全国的に廃業がすすんでいる という事実は残念。 最近は時どき外国人観光客の姿も見かけたりするし、 なんとか踏ん張ってもらって永い存続を願っている。 内風呂と比較して「体がキレイに洗われている」 「芯 まで暖まって湯冷めしない」。 これらを明らかに実感できるのは心地よい。 皆さん、たまには「外風呂」、行ってみません?


 



2015/5月/1日

続・ヒーローも完璧ではない

・・・で、売る虎 じゃない ウルトラマン関連で、もうひとつ。

初代ウルトラマン主題歌の3番は、いちおう
onpu_1光の国から 地球のためにonpu_2
などとなってはいるが、 怪獣たちがお越しになる場所って 他の国は無いのね 100%日本なんだよね・・・ まぁそれは予算の都合で、という事情で目をつぶっておこう。

この日本でよく戦ってくれるけど、怪獣が現れる頻度って どれくらいなんだろう?  そのたびに街が破壊されている(それも大抵 東京辺り)。 繰り返し壊されても いつの間にか何度でも あっさり復旧されているのには、 おそれいる (普通に考えれば早晩 日本は破産してしまうだろうに)。 そしてその都度 怪獣 は倒されて一件落着、めでたしめでたし、 ということで ほぼ毎回おしま い・・・しかし! 決してそれで終わって すっきり目出たいはずない。 「後始末、どうすんの?」

当のウルトラマンは胸のランプがピコピコ赤く点滅し、 3分過ぎるとパワーがなくなってしまうとかで アッという間にシュワッチ!、 と宙へと飛び立ち去ってしまう。倒した怪獣そのまんま放ったらかして。 見守っている人たちは皆 やれやれ、とホッとしている様子だが、 さてこのあと、どうやって始末するんだろう。あんな巨大な図体、 いちいち掘って埋めるのであればさぞ大変・・・そんな亡骸を いったい何体 葬っていることやら。 並々ならぬ手間ひまと人手・労力かけて、毎度毎度 ご苦労なことである。


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本来ならばウルトラマン本人が その作業を済ませてくれれば一番いい。 どうせなら 最後まで責任もって処理してくれれば有難いんだが、 無理なことは頼めない。彼にはそこまでの余裕は到底ない。 埋葬する時間が無ければ、せめて宇宙の彼方の どこかへ運んでいってくれれば とは思うが、 両腕に亡骸を抱えて飛び去る姿を想像すると さすがに絵にはならないしねぇ。

というわけで仕方なく 戦い終わって倒した怪獣そのまんま放置して 彼は地球をあとにする。 それしかないのである。不本意ではあるが。


 



2015/4月/21日

ヒーローも完璧ではない

ウルトラマン世代 である。

いわゆる変身もの(変装、ではなく)・・・ 普通の人間(に見える)の青年が巨大な超人と化して戦う というタイプのヒーローは、 ウルトラマンが最初であろう。 当時の子供たちの多くがこの斬新な設定に夢中になり、空前の人気だった。 しかしはじめのオンエアのころ(昭和40年代 = 素直で純真な 幼い少女期) は気にもならず ただ熱心に毎回観ていたものの、 年月経って だんだんいろいろひねくれた知恵がついてくると、 疑問を感じたり納得出来なかったりする点が結構あることに気づく。

当たり前だが変身場所は屋外。 だが彼は毎度 ほとんど周囲に気を払っていない。 変身の瞬間の現場は絶対誰にも目撃されてはならない と幾重にも注意するのが鉄則であるはずで、 入念に周辺を見渡し 完全に無人であることを確認するのは当然であるべき。 一刻を争う非常事態であるのはわかるが、あまりにも不注意すぎるんじゃないかなあの人。


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その後のウルトラシリーズの主人公たち皆さんも同様であるが・・・ ちなみに個人的にはウルトラセブンが一番好きだった (シリーズ人気投票でもトッ プらしい)。 何より主題歌が格好よかったねぇ〜特に冒頭部分の和音やらコーラスやら。 つづく。


 



2015/4月/10日

桜の名所

結局 今年の桜は 満開のあと ぐずついた天候が続くことが多く、 青空に映える日があまりないまま終焉を迎え始めた。

毎年この季節には、桜名所の開花具合が連日発表される。 皆さん挙ってそういう場所に出かけてゆくため、 ここ京都市では その方面へのバス車内は すこぶる混み合う。

そこでいつも思うのだが、なにゆえ こうしたポピュラーすぎる名所を目指す人びとが多いのだろう。 皆が皆 同時に押し寄せるのだから混雑するのは当然・・・それでもその煩わしさへの犠牲を払ってでも、 名の知れた お花見スポットには 大勢が足を運ぶ。

この時季、あらためて巷を見渡してみればわかることだが、どの街々にも思いのほか桜の木々が植わっている。 関西界隈も、ちょっと私鉄に乗って車窓 からの眺めに目を向ければ、 考えているよりはるかに多くの桜花が ピンク色の雲のごとく視界に次々と飛び込んでくるのに気づく。 線路沿いをはじめ、近所の公園や名も知らぬ川の岸・・・並木となって迫ってくる光景もあるし、 たとえ1〜2本の木であったとしても 盛りのころの咲きっぷりはみごとなものである。 そういうところでも充分に お花見は堪能できるはずで、 桜を見に来たんだか人を見に来たんだかわからない場所に身を置きつつ しっとりと落ち着いた情趣を味わうのは、なかなか難しいのでは・・・。

以前住んでいた市郊外の新興住宅地の一角に、 小川沿いに数十メートルほどではあるが ひっそりと桜並木が続いていた。 何故かそこは滅多に人が訪れず、超穴場の お花見スポットであった。 ちゃんと木の椅子まで設えてあって、 うららかな日中 一人で訪れては満開の桜を心ゆくまで楽しんだものである。 周囲に人影もなく、まさに「絶景独り占め」状態。 至福の時間を幾度となく過ごすことができた。 落花盛んのころともなると 華麗な花筏が水面に浮かぶ。 その美しい趣は、人一杯の哲学の道を凌ぐほどだった。


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マスコミの 桜名所の開花情報にばかり頼らずとも 日本の春、 すこし周囲に気を配れば「ごく身近に」お花見スポットは 用意されているもの、と思っている。


 



2015/3月/28日

さくら

7年前の今日、父を荼毘に付した。 斎場への行き帰り 車で通った道は川沿いで、堤の桜並木が5〜7分咲きであった。 車の進路のずっと向こうまで 美しい淡紅色が春霞の中に溶け込んでいた情景を鮮やかに憶えている。 しかし今年はというと本日の時点で、ここ関西エリアは開花宣言がされたばかり。 年によって同時季でも咲き加減が違うものである。

それでも年によって多少は異なるが、同じエリアでは さほど大差は生じない。 わたしの生活圏内では概ね3月下旬〜4月上旬。どの年もそれはほぼ変わらない。

だが地域が異なると その事情も変わってくる。 一昨年、関西では殆ど葉桜と なってしまった4月半ば、岩手を訪れた。 桜はまだ莟が固く、代わりに白いコブシの花が一斉に満開であった。 言うまでもなく、この地方の人びとにとって桜の開花は もうしばらくあと、 というのが当たりまえなのである。 さらに もっと北、北海道に行くと大型連休の時分が盛りなのだろう。


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かくの如く桜前線はおよそ一月半を経てやっとのことで日本列島を南から北へと縦断の旅を果たす。 自分の住まう場所の桜が いつ咲き始めていつ満開で・・・などというのが毎年の常であっても、 ほかの地域では状況は それぞれ異なる。 自らが当然の如く馴染んでいる日常は 決して普遍的な常識ではない。 今後も父の命日、とりもなおさず桜の時節になると 改めて そのことに思いを馳せるだろう。


 



2015/3月/15日

野菜の味

びっくりするくらい大玉のキャベツを安く売っていた。丸々ひとつ買おうと思ったが、 これだけで冷蔵庫の野菜室のスペースが全て占領されそうである。 脇を見ると同じものの半玉があったので、少々割高ではあるが そちらを購入することにした。

さて、レンジを使って柔らかく蒸してみると、なんだかふんわりと心地よい香り。 生(き)で口にすると、「甘い!!」

そこで突然、キャベツは「甘藍」が別名 だと思い出した。 そう、この名の通り、もともと甘みのある野菜であるのだ。 しかし 仄かな甘みを有しているのは以前から知ってはいたが、 ここまで しっかりとした甘さに感動した経験は かつて無い。

野菜の持つ昔ながらの本来の味は 次第に失われてきているのではないだろうか。 昔の胡瓜は もっと特有の苦みの混じった風味が強く、子供の舌には 馴染みにくかった。 それでもチーズとの相性は抜群で、胡瓜とチーズをはさんだサンドイッチが好きだった (そのチーズにしたって、昔のアクのある刺激的な味は薄れてきている)。 だもんで今、胡瓜とチーズのサンドイッチを作ってみても、 子供時代に味わっていた美味しさは さほど感じられない。


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おそらく野菜(以外の食品にも言えることだが)独特の青々しい風味は徐々に消費者側が受け付けなくなり、 年月が経つにつれ 万人に好まれる味へと作りかえられてきてしまったのかも・・・ 同時に、個々の持つオリジナルの味が消失してしまったのは やはりさびしい。

因みに、冬の厳寒で育った作物は 凍結しないよう自身で糖度を増す とのこと。 わたしが買った半玉キャベツも 寒冷地で育てられたものだったのかな?


 



2015/3月/4日

続 Typhoon Family

幼い時分の勘違いは誰にでもある という話を書きながら、 かつて村上春樹氏のエッセイに綴られていたことを思い出した。 子供のころ、「記者会見」を「汽車会見」だと思っていたそうな。 会見場は揺れる汽車の中・・・それも何故か「夜汽車」であるらしい。 大人になっても「記者会見」という言葉を聞くたび、 人びとが中で会見を行っている夜汽車が暗闇を走り行く情景が思い浮かぶそうで、 世界の村上春樹といえど かくの如きであるのだから わたしがちょっとばかし失笑を買うような勘違いをしたって どうってことあるまい。

ということで鉄道繋がりということで白状すると、 わたしは子供のとき「小田急電鉄」を「オバQ電鉄」だと思い込んでいた。 昔は、「春闘」というと決まって私鉄がストライキを決行し、 そんなときは学校に教職員たちが通って来られないので当然休校となる。 お休みだ〜!と喜びつつも朝からテレビのニュースにかじりついていると、 首都圏の私鉄のスト状況が報道されるたび必ず「小田急電鉄」、 という言葉がアナウンサーの口から発せられる・・・子供のわたしの頭には、 当時 一世を風靡していた藤子不二雄作の漫画・オバケのQ太郎しか思い浮かばない。 「さすが大人気のオバQ。鉄道会社の社名にまでなっていたのか!」と 妙に納得して感心したものである (いくらなんでも、この間違いには中学生くらいのときには気づいたが、 その後 長じて30代前半の5年間、奇しくも小田急沿線に住まうことになろうとは、 まさか予想もしなかった)。

そして成人したのちも・・・「シマンテック」という会社がありますよね。 この会社、OSを保全するNorton何とかというソフトウェアを作っていて、 かつてMACを持っている人にとっては必携だった (うちはその頃からMACです)。 ちょっと調べてみたら日本で法人ができたのは20年くらい前のことらしくて、 わたしはとっくにレッキとした大人になっておりましたが、 それでもその名を聞き始めた時からかなり長いあいだ、 それを「四万十川流域のベンチャー企業」だと ずぅっと信じていた、疑う余地無く。 30年以上も前に米国で設立されたソフトウェア会社だと知ったのは、 わりと最近、数年前のことである。


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この年齢で、これだもの。もはや メガトン級とすら呼べる赤面モノかもしれないが、 ひとり思い込んでいただけでほかの人に話さずに本当に良かった・・・。


 



2015/2月/22日

Typhoon Family

この国で暮らしている限り 台風というものは夏季に到来する と相場が決まっているが、 それはあくまで日本を襲うものに限ってのことであり、はるか南方の海上では今年になって 既に2つの台風が生まれているそうである。

夏のシーズン、台風がやってきて大荒れの天候が続き、去ったあとよく「台風一過」の青空が 広がる・・・などと言われるが、わたしは幼い頃、これを「台風一家」だと信じて疑わなかった。 大型台風はお父さん、そのあと少し小さめなのはお母さん・・・その後の小型は子供の台風なんだ、 などと勝手に「ファミリー像」をイメージして作り上げていた。 そんなわけで、今でも「台風一過」という言葉を天気予報で耳にするたび、 台風家族の情景が無条件に頭の中で構築されてしまう。


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誰にでもこんな拙い勘違いはあると思うのだが、わたしの場合、けっこう年長になるまで・・・ たぶん中学生の時分ごろまで そう思い込んでいたのだから、恥ずかしくて情けない限りである。


 



2015/1月/15日

独楽まわし

小正月ということで、松の内(関西流の)も本日で終わり。

「お正月には 凧揚げてー、独楽(コマ)を回して遊びましょ〜」 という素朴な歌詞が 新年の子供の情景を反映していたのは、何時ごろまでのことであったのだろう。 

それでも少なくとも昭和40年代ごろまでは、 お正月に限らず確かにそういう遊びが周囲で普通になされていた。 家の前が だだっ広い田んぼだったので、 冬の風の強い日には子供たちが挙って凧を揚げていた。 そしてわたしも友人たちと共に うちの庭で よく独楽で遊んだ記憶がある。

独楽というのは最初とっつきにくく なかなかうまく まわせないものであるが、 一旦コツを覚えると あっという間に上達する。 わたしも失敗を幾度も繰り返しているうち、 女児ながらも数日後には上手に まわせるようになった。手から離れて最後に紐をグッと引く瞬間が快感だった。

そんな遊びから長らく遠離ったのち、数年前 実に久々に独楽を手にしたことがある。 遥か昔の感触を何とか思い出しながら挑戦してみたが、 全然ダメだった・・・もう一度 ひとしきり練習すれば、 かつての如く成功にこぎつけそうな気はするが、残念ながら周囲に練習出来る場所は見当たらない。

そう、独楽回しをするには、 ひとに迷惑をかけることのない充分なスペースが用意されていなければならないということ。 数十年前は 誰にとっても ごく当たり前のように身近にあった環境なのだが、 今 都会で そんな状況に恵まれている子供はどれだけいることだろうか。 日本の伝統的な正月遊びも、現代の子供たちにとっては 遠いものとなってしまったような・・・。


 



2014/12月/31日

デパート屋上遊園地

時折、JR高槻駅からバスに乗って実家にかえるのだが、 この駅の南側に高槻松坂屋が建てられてから35年になる。 大都市の百貨店とは異なり小規模ではあるが、 現在ある点において この店舗には希少価値が備わっている。 それは「関西圏で、唯一『屋上遊園地』が残っている」というものである。

わたしの幼少期、大概の百貨店の屋上には遊園地があるのが当たり前であった。 親に連れられての買い物のあと、子供は そこへ行って遊ぶのを楽しみにしていた。 多くの子供たちにとっての「定番」のコースだったのである。

しかしいつしか時は移ろい「遊園地」自体が徐々に廃れてゆく。 阪神パークや宝塚ファミリーランドなど、 子供時代に親しんだ場所は 淋しくも次々と閉園してしまった。 そしてデパートの屋上にある遊園地も例外ではなく順に姿を消し、 今や全国的に風前の灯である。

しかしここ、北大阪の一都市に関西で唯ひとつ、残されている・・・ 規模は小さく相当地味ではあるが、厳然として確かに存在している。 これはもう、奇跡に近い。

気候天候の良い休日に様子を伺いに行ったことがないから 今どれくらい人がいるのかいないのか現状はわからないが、 どうか ここだけは無くさないでほしい、と願うばかり。 そのためには、ぜひ人々で賑わってもらわないと。 垢抜けないけどホッとできるレトロな空間。 その「最後の砦」となった高槻松坂屋の屋上に、 坊ちゃん お嬢ちゃん、遊びに行ってあげてね。


 



2014/12月/10日

子供時代のお菓子

むかーし幼かった時代に好きだったお菓子を食べたいっ!と、むしょうに思う ことがある。 筆頭は 不二家「フランスキャラメル」。巻毛の西洋の女の子の顔が真ん中、 トリコロールのパッケージで 味もバニラ、コーヒー、チョコレートの3種類。 ごく小さい頃よく買ってもらっていて、小学生のときは何故か無くなって、 高校生くらいのときに再び市販されて 夢中で食べて大好きだった。

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小学校低学年のころには、明治で出していた「シャトーチョコレート」に中毒に なっていた。 テレビでCMも流れ、 相良直美さんが「ラララ シャトー〜〜onpu」なんて歌っていたっけ。 あの免税店なんかでよく売ってるスイスのトブラローネ(TOBLERONE)を模したもので、 三角のバーの変形チョコである。

あと、森永ハイクラウンチョコレートのクランチ、なんてのも。 ミルクとビターの2種類は、ちょっと前まで 100均ショップで見かけたりしたもの だけど、一番のお気に入りのクランチだけは最早どこにも見当たらない。先日まで 確かハイクラウン発売50周年ということで、東京駅に特設売場が できたそうだが、 そこではもちろん全種類扱っていたのだろう・・・期間限定にせず、いまだ人気は 高いはずだから、今でも常に売ってくれればいいのに、森永さん?

どうしてあんな美味しい お菓子たちが 今はもう無くなってしまっているのかな。 思い出すと今すぐ食べたい。幼少期の味覚の記憶は、いつまでも鮮明に刻まれている。


 



2014/11月/2日

銭湯で懐メロを

毎晩 ごく近所の銭湯に通っているが、いつ行っても脱衣所で昭和のヒットソングが流れている。 オフコース「さよなら」だの、五木ひろし「夜空」だの。それぞれざっと35年前、40年前と いったところ。概ねそのころの曲が多い。今やレトロなイメージを纏う「銭湯」であるが、それを 自覚してのことだろうか。

昨夜は さらに時代を溯り、ザ・タイガースの「君だけに愛を」。そして今夜はベッツィ&クリスの 「白い色は恋人の色」が流れていた。これも45〜6年ほど昔の曲である(こう書いたところで、 これを読まれている方々のうちどれだけのひとがピンとくるかなぁ)。

幸いにして今夜は、女湯は わたしの独占。脱衣所でたったひとり、無意識のうちに「は〜なびら〜の 白い色は〜〜」などと口ずさんでいた。これほど年月が経っているのに、歌詞とメロディがすらすら 出て来て歌えてしまうのには驚愕。普段すっかり忘れてはいても、じつは古い記憶のなかに しっかり 染みついているものなのね。われながらびっくりしてしまう。



 



2014/9月/19日

蕗谷虹児のアラビアンナイト

いわゆる大正ロマンの叙情画家を代表する 竹久夢二は、その方面に興味のない人々でも きっと その名前くらい聞いたことがあるだろう。 しかし それ以上に心魅かれる挿絵画家がいる・・・蕗谷虹児。竹久氏ほどメジャーではないので どれほどの人がご存知か、どうか。

さて、今 手許にある蕗谷虹児の図録の中に不思議な挿絵が載っている。20年以上前に入手した当初から奇妙でしかたがなかった。 それは「アラビアンナイト」と題されていて、その物語の一場面を描いた作品であるのだが、いわゆる「魔法のランプの巨人」が、 どう見ても昔の中国人としか見えない装束の若い男女を背負って宙を翔ている情景なのである(七夕の牽牛、織女といった感じ)。 かなりシュールなイラストに見える。これはいったいどういうことか、と長年悩んでいた。 20余年前というと、ちょうど折しもディズニー映画の「アラジン」がヒットした頃であったし、そもそも幼少期から このお話は「アラビアンナイト」の 中のひとつで、「アラビア」が舞台なのが当たり前、と完全に思い込んで育った(わたしだけでなく、普通の人は殆どがそうなんじゃない?)。

ところが、である。このたび、あるきっかけで このお話を詳しくチェックし直すこととなった。そしたら あ〜らふしぎ、何と このお話の 舞台は実は 中国であった! ということが判明したのである。まさに目からウロコ。 だから当然アラジンは中国人であり、登場するお姫さまもチャイニーズ・ビューティということになる・・・巨人の背に乗ったカップルが その2人。虹児の描いた挿絵は、物語を忠実に写し取ったものであったのだ。最初にこの絵を目にして以来、ようやく長年の謎が解けた。 因みに、中国人アラジン としての姿を描いた作品が存在していて、 これ。→ http://arabic.kharuuf.net/archives/195

そして もうひとつ、オドロキの事実。このお話は、本来アラビア語の原典が見つからない、つまり「アラビアンナイト」とは関係がない、 ということだそうな。あの「アリババと40人の盗賊」も同様のようで、それらは「orphan tales」とか呼ばれているらしい。孤児の物語群 ・・・といったところでしょうか、初めて聞きました知りませんでした。人生、いくつになっても新たに悟ることがあるもんだ、と感心しきり。 それにしても、「アラジン」なんて名の中国人は まず居ないと思う・・・(だいたい、それからして無理がある・・・気がする)。


 



2014/8月/23日

正太郎少年

先日、鉄人28号のフィギュア盗難騒ぎが ひとしきり話題となった。 28号の初出から かれこれ半世紀、そのあいだにリメイクが重ねられたりしているためか、いまだ人気は褪せないようである。 若い人たちにとってもレトロ感を醸し出す こうした昭和のヒーローは、却って新鮮なのかもしれない。

ところで この作品の主人公、金田正太郎少年に関しては実に謎だらけである。昔から かねがね解せないことがたくさんある。 この子は拳銃を所持し、上手に使用する。車を普通に運転する。確かヘリコプターなんかも操縦してたんじゃないか、と記憶している。

せいぜい小学校高学年程度と思しき少年が、である。何故にこんなことが可能であるのか奇妙でしかたない。 そもそも、どう見ても学校に通っている様子がうかがえない。日本国憲法には、子供に「教育を受けさせる義務」が明記されている。 したがって彼の周辺の大人たちは、明らかに憲法違反をしている。

この時代に流行った作品で、他にも同様のキャラクターって居ますけどね。少年ジェットとか、まぼろし探偵とか。 そんな疑問を抱いた人、わたし以外にも きっといることだろうが・・・当時こういう設定、疑問も抱かれずに通ったのか? 不思議でならないが、 ここはスパッと割り切って この作品で描かれているのは違う次元に存在する日本でのできごとである、と認識したほうがいいのかもしれない。


 



2014/8月/6日

真夏の儚さ

とうに一年の上半期が終わり、梅雨が明け、猛暑の夏本番が到来。 でも8月に入って一週間が過ぎ、あっという間に明日はもう立秋である。 このころになると、本当に暦通り 早朝など、初秋の涼風を微かに感じる。

そう考えてみると「真夏」の時季というのは 本当は思いのほか短い。 せいぜい半月ほどの期間しか無いような気がする。 夏至のころは、あきらかに日没の時刻が遅く、夜7時半あたりでも明るかった。 しかし今では同じその時間、薄明は徐々に弱く、確実に暗くなるのが早くなってきている。

毎年 この時分になると それを実感しつつ、いつしか夏は逝く。


 



2014/8月/5日

アメショーが・・・

ご近所の家で2匹のネコが飼われている。1匹は雑種のキジネコ、もう1匹はアメリカン・ショートヘア。 前者は家の中のほうが好きなようで あまり表には出て来ないが、後者はほぼ毎日道端で出会う。 最近は暑いので、涼しい所を上手に選んで昼寝をしていることが多い。

さて、そのお宅のはす向かいの家では小型犬を飼っている。近頃、そのコのキャリーケースが虫干しのためか、 よく玄関扉の外に出されているのだが・・・しばしば その中に、ちゃっかり前述のアメショーが入り込み、すやすやと寝ているのである。 丁度その中で休んでいる時に 本来の持ち主である小型犬が「使いたい」という場合が生じたら、どうするのか。 しかし「そのキャリーケースは、ひとのもの」という認識など、そのアメショーにあるわけもない。

ネコという生き物の普遍的な不文律。 「じぶんの物は、じぶんのもの。ひとの物も、じぶんのもの」